2009年3月アーカイブ


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市民公開講座


テーマ「現代といのち」

【宮井清暢先生からのメッセージ】
 この5月から、いよいよ裁判員裁判が始まります。裁判長制度については、刑事裁判への「市民感覚」の注入を期待する声がある一方で、さまざまな問題点や懸念が指摘されており、実施を延期すべきという意見や、早期の抜本的な見直しを求める声も少なくありません。国民の理解も十分とは言えず、裁判員に選ばれた人はもとより、国民の大半が不安を抱えた中でのスタートとなります。また、この制度の対象となるのが刑事事件であること、とりわけ、死刑や無期懲役に相当する重大犯罪であることから、この制度のゆくえは、「治安」に対する国民の意識や、死刑制度の是非をめぐる今後の世論の動向にも、重大関わりをもつことになると思われます。
 この講座では、裁判員制度が導入された背景や目的、経緯、この制度の概要と特徴、裁判長の権限と義務などを説明したうえで、裁判員制度の導入によって目本の刑事裁判のあり方がどのように変わるか、憲法や刑事手続の基本原則の観点からみて、裁判長制度にどのような問題点があるか、裁判長制度の導入が私たちの日常生活や社会に対してどのような影響をもたらすか、などの点について考えてみたいと思います。

講師  宮 井 清 暢氏(富山大学経済学部教授)
講題  「裁判員制度一何か問題か一」
日時  4月25日(土)午後2時~午後4時
会場  射水市大門総合会館
      (射水市大門67 ℡ 0766-52-0564)


講師略歴 1959年 富山県黒部市生まれ
       1981年 早稲田大学法学部卒業
       1988年 早稲田大学大学貌博士課程修了
       ※ 愛知学院大学法学部教授を経て、
       2005年より富山大学経済学部経営法学科教授
 著書(共著)として、『現代目本の憲法』(法律文化社、2009年)など

聴講無料

皆様お誘い合わせてお越しください

《主催》真宗大谷派高岡教区教化委員会《共催》高岡教区第8組
問い合わせ 高岡市丸の内2-15高岡教務所内 TEL 0766-22-0464)

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新作DVD 『承元の法難』堂々完成!!

いまから、およそ800年前
国家権力の支配下にあった平安仏教に終止符を打って、
鎌倉浄土仏教を確立した吉水教団は、
時の『体制権力』によって弾圧・解体され、
法然上人医か、師弟十数人が
死罪・流罪に処せられた


親鸞聖人流罪八〇〇年
承 元 の 法 難


脚本:伊勢谷功  撮影・音楽:菅原龍憲  編集:毛利慶典  題字:和田至紘  
ナレーション:藤塚昭久  朗読:森山潤久 濱田博徳

本願念仏の教えにいのちをかけた、
浄土真宗の開祖・親鸞聖人の生涯をとおして、
『民衆の新の目覚め』を、つねに妨げてきた『体制権力の猛威』を、
承元の法難を中心に据えて描く、現代人の御伝鈔
収録時間 45分
協力金 一枚2.500円
発行所 「承元の法難制作委員会事務局
      〒694-0064大田市大田町大田 口550
      〒922-0411加賀市片山津温泉砂走 チ51 


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浄土の供養
 現代において仏教と私たちをつなげているものに「供養」ということがあると思います。しかし供養という言葉ぐらい誤解されて使われているものは無いのではないでしょうか。
 本来、供養とは「食物や衣服を仏法僧の三宝に供給する」という意味です。決して、亡くなった人から祟られたりすることから自分を護るためのものという意味はないのです。それがいつの間にか、供養が祟りと災いから、自分の身を護るための道具にされてきたのです。
 供養は顕彰すればよい、故人の功績や善行を讃えればよいというものではありません。言い換えればただ単に良い人だったといっておればよいものではないと私は考えます。故人が私に願われてる願いに仏様の教えを手がかりにして訪ね頷いていくことが大切だと思うのです。
 私たちの宗祖親鸞聖人は、「還相廻向」ということをいわれます。阿弥陀仏や浄土の人々からから私たちに浄土に生まれよという願いが掛けられていることを 教えてくだされています。私たちは先祖や仏様に色々と願い事をします。私が幸せになりますように、成仏してください、みんなが幸せになりますように...等々 色々お願い事をするものです。願い事が叶うかどうかということを別として。ある意味私たちが仏様などにお願い事をすると同じように仏様、そして浄土におら れる先祖の方々もお願い事をされています、私たちに。私たちに願いを掛けておられるのです。その願いに気づいていくことを私たちの先祖の方々は大事にされ てきたのです。先祖が敬うべき存在であったことに気づきそのことに頷きつづけていくことが私たちには大切なのでしょう。
 先祖はほめたたえておけばよいのではなく、尊敬すべき、供養すべき存在として出会い直してくことが大事なのです。先祖の導きの声を念仏の歴史を通して聞 き取っていくこと、先祖の生き様に学び私が求めるものを明らかにさせてもらうことが大事なのです。時には悪いことを身をもって教えてくださったこともあっ たでしょう。
 先祖が犯した間違い、そして犯した罪を罪と認め、自分たちが二度と繰り返さないと誓い、歩んで往くことも先祖が喜ばれることの一つでしょうし、大切な供 養の一つとなることでしょう。戦争を二度と起こさない、すなわち「殺さない、殺させない、殺されない」という歩みは私たち日本に住むものにとって本当に大 切な先祖を供養するという歩みになることでしょう。また大切な先祖の顕彰なのです。
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信じるということ
 私たちの教え、浄土真宗では「信心獲得」すると言うことが私たちが一番しなければいけないこととされています。信心とは阿弥陀仏を信じる心、その心を体得することが私たにとって一番大事なことなのです。しかし、信、信心という言葉に対する誤解が合ったことに最近気づかされた私です。
 私たちの信というのは信頼という言葉で言われるようなものです。自分の思いにかなったものを信頼したり、また自分の思いから外れると裏切られたと思ってしまいます。私たちは信頼できると自分が判断したときにのみ少し信頼しようと思います。それはどこまでいっても自分の思いから越えた信ではありません。浄土真宗の信は他力の信心といわれるように自分を越えたところにおこる信頼です。ですから私たちが思うような信とは違うということなのでしょう。
 仏教に関する辞書を開いてみると、「心を澄んだ浄らかなものにする作用」という風にかかれていました。お経の中にかかれている「信」という字は、もともとインドも昔の言葉の「シュラッダー」という言葉を翻訳したものだそうです。そのシュラッダーという言葉を日本の言葉に訳すると、心を澄んだ浄らかなものにする作用となるそうです。人汁ということの内実は心がきよらかになっていくということといえるのではないでしょうか。今まで濁っていたものが少しずつ澄んでくる。今まで濁って見えていなかったものが少しずつ見えるようになってくることを信ずることと言っても良いことでしょう。
 何が見えてくるのかといえば真実ということなのでしょうけど、宗祖親鸞聖人の「念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ、おぼえそうらえ。よくよく御こころえそうろうべし」ということをたよりにして考えると、真実が見えるとは自分の心の悪いところが見えてきて、さらに世の中におこっていることに厭わなければならないことがたくさんあることを思い知らされることなのでしょう。
 浄土に何故自分が生まれなければならないのかということがはっきり見えてくるからこそ阿弥陀仏を信じることが出来るのでしょう。
 厭うとは、いやに思う・いやに思って避けるという意味がありますが、もう一つ、大事にする・いたわるという意味があることにも注意しなければらならないと思うことです。


ご命日の集い三月から再開します
ご命日の集いとは私たちの宗祖、親鸞聖人のご命日である二十八日に開催する仏事です。常入寺では三月から九月の間の毎月二十八日に勤めています。何をやっているのかといえば、実は難しいことは何もありません。宗祖親鸞聖人がお造りになられた「正信偈」といううたをみんなで節を付けて読んで、後はお茶を飲んでいるだけです。
それだけです。

皆さんも月に一度お寺に集いお茶しませんか?
どうぞお気楽に顔をお見せ下されれば幸いです。お待ちいたしております。
毎月二十八日午後二時~三時ぐらいまで
とにかく一回来てくだはれまっ! たのんちゃぁ


城端別院法宝物御巡回布教


日 時 三月六日(金)  午前9時30分より 午後3時30分まで

会 場    常入寺庫裡座敷

布教使    未定

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