2009年アーカイブ
高橋祥友先生からのメッセージ
1998年以来わが国の年間自殺者総数は3万人台が続き、この数は交通事故死者数の約6倍に及びます。残念ながら、わが国は世界の中でも自殺率の高い国のひとつになってしまっています。さらに、未遂者数は既遂者数の少なく見積もっても10倍に上ります。また、自殺や自殺未遂が起きたために、遺された多くの人々が心の傷を負ってしまいます。自殺予防の基礎知識とともに、遺された人々へのケアについて解説したいと思います。

二〇〇九年六月二十八日午前十時より
二十九日午後四時まで
六月二十八日
午前の部、並びに祠堂のお勤め
午前十時より
尼講のお勤め 午後二時より
午後の部 引き続き
六月二十九日
午前の部のお勤め 午前十時より
午後の部のお勤め 午後二時より
※二十八日は尼講による昼食の振る舞いがございます。
それぞれのお勤めのあとに法話があります。(午前の部十二時頃、午後の部四時頃終了予定です)
法話は、両日とも婦中町の寳堂寺住職の篠川 弘一さんにお話しを頂きます。
祠堂経会開催中二日間 皆さんといっしょに聞法いたしたいと思っています。
ご近所の方々をお誘いの上お参りください。お待ちいたしております。
祠堂について
お寺に寄附をすることを祠堂といいます。どうも祠堂銭という言い方を以前はしていたようです。身内が亡くなられたことを縁としてお寺に祠堂されることが多いです。いつ祠堂すればよいのですかと聞かれることがありますが、寄附ですので、しなければいけないこともありませんし、いつということも決まってはいません。思い立ったときお寺にお持ちいただければよろしいです。また金額もお気持ちをお入れください。多い少ないということはありません。祠堂しようというお気持ちがお寺にとってこの上ない喜びです。
常入寺では祠堂を頂いた方々に祠堂のお勤めを祠堂経会の初日にまとめてさせていただいています。今年の祠堂経会の時にと思われるのでしたら出来れば祠堂経会が始まる一週間前までに祠堂をしていただければ幸いです。準備の都合等がございますので、祠堂経会の当日祠堂いただいてもお勤めできないこともございます事ご了承ください。
『安楽集』に云わく、真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、念仏相続
前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。(親鸞聖人)
浄土真宗の寺院が建っている意義は念仏の声が未来永劫まで響き渡ることを願いとしています。その使命を全く果たそうとしていないものは浄土真宗の寺院と言えません。念仏のの声を皆さまにお届けすることがお寺の大事なお仕事であり、住職である私の重大な任務なのでしょう。
念仏の声を皆さまのお宅にまでお届けする宅配業が浄土真宗のお寺と言っても言い過ぎではないと思います。またこのお寺は念仏の声を聞き、またその念仏の声に応えるようにナムアミダブツと念仏を称えてこられた方々によって相続されてきました。念仏を子や孫の世代の人々に称えてほしいと言う願いのもと相続されてこられたのです。
そういう願いのもと相続されてきたお寺を住職として管理している私はそういう願いに応え続けたいと思わされます。また力不足の私であることも同時に知らされることです。
私たちは沢山の念仏の声を聞いて育ってきました。今もなお育ちつづけています。念仏を栄養に成長しつづけています。
しかし、念仏によって育っている私たちですが、私たちの口からあまり念仏の声が発せられなくなっています。阿弥陀仏の願いよりおこった念仏の声が今わたしの所まで聞こえているのですが、その歴史を途絶えさせようとしてしまっているのが私たちではないでしょうか。
「今の若いもんは」とつい思ってしまう私たちがですが、そういう若いもんを作ったのは誰なのでしょうか、少なくても私たちの後ろ姿を見て育ったのが彼らです。私たちは彼らに何を伝えたでしょうか、何を相続すべきか伝えたでしょうか。
その前に私たちは前に生まれた人々から何を受け取っているのでしょうか、何を相続しようとしてきたのでしょうか。今相続したと思っているものは前に生まれた人たちが相続してほしかったものなのでしょうか。
何を受け継ぎ、何を残したいか、そういうことを念仏を称えながら一人ひとりが考えていかなければならないことなのでしょう。

5月14日から15日まで富山市内で北陸連区差別問題研修会が「戦争と性」というテーマのもと開催され、私も全日程参加いたしました。テーマについても色々学ばせていただき考えもさせられました。
その中で講師のお一方が非僧非俗の非ということは解放されたと言うことだ、と教えてくださいました。私はその言葉にびっくりしました。私の思いの中では想定外の言葉だったからです。
非僧非俗という言葉は宗祖親鸞聖人が自らの立場を語られたお言葉です。親鸞聖人は29歳の時、承元の法難により京都にお住みになられていましたが、越後の国に流罪にお遇いになられました。そのとき僧籍も剥奪されたのです。比叡山の僧侶であった親鸞聖人は公の僧侶、朝廷が認めた僧侶ですので僧侶のまま流罪に科することが出来ないため、まず僧籍を剥奪して俗人したわけです。そのことを縁として親鸞聖人は我は僧籍を朝廷より剥奪されたので僧侶ではない、だからといって俗人でもないのだと、自らの立場を「非僧非俗」と表現されたのです。
そのことを講師の方は僧侶から解放され、俗人からも解放されたのが親鸞聖人だと教えていただいたのです。私の思いの中では僧籍を奪われたけども私は真の僧侶として仏道を歩んでゆくんだという反骨精神に近いものだと思っていたのですが、講師の方はそうは説明されなかったのです。俗人というカテゴリー(部類)でもない、僧侶というカテゴリーにも属さない、またそのことに執着しないものとして、まことの自由人として、まことの独立者として歩む決意が「非僧非俗であると教えてくださったのです。
その言葉を聞いて私はドキッとしました。何かはっとして回りが明るく感じた思いがしました。
宗祖親鸞聖人はあらゆることから解放され続けようと歩まれた方、あらゆることに執着しない、とらわれない生き方を念仏を称えられながら目指された方だったんだと知らされたひとときでありました。
富山解放連・第24回定期総会「記念講演会」
6/17(水)部落問題講演会
私たち富山解放連では第24回定期総会を迎えるにあたり、広く呼びかけて下記のように部落問題講演会を開催します。何卒、お誘い合わせの上、ご参加下さい。
この度は、近現代史を研究されている静岡大学の黒川みどりさんをお招きし、近現代の部落史をテーマにお話しして頂きます。黒川さんは、富山国際大学の藤野豊さんと共に『近現代部落史一再編される差別の構造』をまとめられて間もなく発刊されますが、同書に込められた黒川さんの研究成果や思いを講演して頂くことになっています。
『近現代部落史一再編される差別の構造』黒川みどり・藤野豊編 有志舎 ¥2、800十税
日本近現代史のなかに「部落史」を位置づけること、わたくしたちは、そのことを強く意識して本書を作成した。わたくしたちは、近現代史通史というと、ともすれば部落解放運動史になりがちであることに留意し、つとめて部落の生活、社会の差別意識の実態などにも言及した。また、部落問題を封建遺制とかケガレ意識の残存という過去の遺物ではなく、近現代が生み出した社会問題であるという視点を一貫させた。部落差別は今も解消せず、存在しているという現状認識に立って、なぜ、そうなのか、歴史を振り返って考察した。〔藤野豊さん〕 1
日 時 2009年6月17日【水】午後4時00分~5時30分
[総会議事:午後3:10~3:50]
会 場 浄土真宗本願寺派富山別院(西別院)・研修室
(富山市総曲輪2-7-12 電話076-421-6672)
会 費 無 料
講 題 『新しい部落史』
講師 黒川 みどりさん(静岡大学教育学教員)
主 催 部落解放にとりくむ富山県連絡会議
☆ 部落解放にとりくむ富山県連絡会議(通称:富山解放連)とは
富山県下で『部落解放にとりくむ各界・各層の広範な相互連絡を深めると
共に、協力関係を拡大、推進し、部落問題の速やかな解決を図る』ことを目的として、1986年3月に結成されました。被差別部落大衆をはじめとし、企業や
宗教関係者、労働者、市民など幅広い層の団体・個人によって構成されています。結成以来22年、学習会・市民公開講座の開催や会報の発行などの取り組みを
行っています。
☆ 会員になってください。会員加入を呼びかけてください。
団体、個人を問わず、会員加入を呼びかけています。年会費[4月から翌年3月まで]は一口1,000円で、団体にあっては5口以上、個人にあっては1口以上をお願いしています。
富山解放連事務局:富山市総曲輪2-8-29真宗大谷派富山教務所内 電話076-421-9770(三枝)
今こそ考えようハンセン病
戦争とハンセン病
わたくしたちは、戦時下、沖縄で軍により銃剣を突きつけられて隔離された方々あるいは全国各地の療養所で総動員体制への参加を強制された方々の苦悩の歴史に心を痛めます。そして、その苦痛のなかから「人権を守ることは平和を守ることだ」との思いを強くします。
今回、吉川さんや山下さんとのディスカッションをとおして、ハンセン病の方々の戦争体験を、なぜ、今、社会に伝える必要があるのか、みんなで考えましよう!
日時 2009年6月12日(金)午後6時開場 6時30分開演
会場 富山市民プラザ(4階アンサンブルホール 富山市大手町6-14電話076-493-1313)
パネリスト 吉川由紀さん(ハンセン病ネットワーク沖縄)
山下道輔さん(多摩全生園 ハンセン病回復者)
コーディネーター 藤野 豊(ハンセン病ふるさとネットワーク富山代表)
日程 6:30 開会
6;40 パネルディスカッション
8:50 閉会
参加費 500円(資料代として)
主催:ハンセン病ふるさとネットワーク富山
事務局 浄土真宗本願寺派富山別院(西別院)
趣 意 書
2001年5月11日、熊本地裁は、ハンセン病患者・回復者に対する絶対隔離を規定した「らい予防法」は憲法違反であるとして、国に賠償を命じる判、決を下しました。これをもってハンセン病患者・回復者の人権が回復されたかに思えました。しかし、判決から2年半が経過した2003年11月、熊本県のホテルが、菊池恵楓園に入所するハンセン病回復者の宿泊を拒否する事件が起こりさらに、それに抗議した同園入所者自治会に対して差別的な手紙や電話が殺到し、私たちはあらためてハンセン病問題が未解決であることを痛感しました。
今、全国の国立・私立のハンセン病療養所には約2700名の方が入所していますが、その多くがふるさとに帰ることができず、家族や親族とも会えない状態におかれています。各療養所の納骨堂にはふるさとの墓に帰れないたくさんの遺骨が眠っています。富山県出身者の多くもふるさとに帰ることができません。今なおこうした状態が続くのは、国の誤った絶対隔離政策のもとで自治体が患者の摘発を進め、地域住民もこれに協力したからであり、したがって、ハンセン病回復者への差別を一掃し、ふるさとに自由に帰られる社会をつくることは、国・自治体の責務でもあり、私たちひとりひとりの課題でもあります。
今、全国のハンセン病療養所では入所者の高齢化とそれによる減少が進み、療養所の存続が危機にさらされていますが、昨年「ハンセン病問題基本法」が制定され、各療養所を地域に開かれた医療・福祉機関に発展させることが可能となりました。また、日本の旧植民地紋治下に韓国や台湾で隔離された方々への補償も実現しました。 しかし、その一方で旧「南洋群島」や旧「満州」、そ
の他日本のかつての占領地で隔離された方々への補償や、戦時下に日本車による隔離の果てに殺害された方々への謝罪と追悼はなされておりません。
今回、私たちはこの事実を重く受け止め、来たる6月12日、熊本地裁判決の勝訴8周年を記念し、「戦争とハンセン病」をテーマにしたシンポジウムを開催いたします。パネリストにお招きした吉川由紀さんは、戦時下の沖縄で、日本軍がハンセン病患者を隔離した事実を膨大な軍資料と聞き取りから明らかにされてきました。また、山下道輔さんは1941年、子どもの時に東京の全生病院(現多磨全生園)に隔離され、戦時下のハンセン病療養所の過酷な生活を体験され、現在まで、隔離の実態を示す資料の保存に努力されてきました。おふたりに共通するのは戦争と差別を許してはならないという強い信念です。おふたりのお話をとおして、「人権を守ることとは平和を守ることだ」という
ことを心に深く刻み、戦争体験を今、社会に伝える意味を共に考えてまいりましょう。
どうぞ、多くの方が、このシンポジウムに参加され、ハンセン病問題の根本的解決を目指し、県出身回復者の方々とふるさと富山を結ぶ絆を強くしていかれるよう、心よりお願い申し上げます。
2009年5月1日 ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山
称名の称という字は私たち念仏の歴史の中にいるものは簡単に「となえる」と読んでいきますが、どちらかといえば本来は「たたえる」と読む場合の方がおおような気がします。また漢字が出来上がった歴史を訪ねていくと「はかる」という読み方が基本なのかも知れません。
称名ということは声に出してなをとなえるということなのですが、ただ声に出して称えていれば終わることではなく、名にかなうように、名に近付くように称えていくことが漢字の意味を尋ねていくと大切なことでしょう。自分が助かっていく道具として念仏を称えていくということではなく、念仏によって救われていくのだ、阿弥陀の摂取不捨というすべてのものを摂めとり捨てないという広い願いによって、如来の大いなる悲しみによって私がたすかっていくのだと心に刻み阿弥陀如来の名を、南無阿弥陀仏ととなえていくことが大事なことなのでしょう。それが唱名でなく称名の所以なのでしょう。
蓮如上人は「寝ても覚めてもいのちのあらん限りは称名念仏すべきものなり」と勧めてくださっています。それは義務という意味ではなく、阿弥陀の本願に出会ったとき私はつねに、いのち終わるまでいつもかも念仏を称えて行かなければならない我が身ということが明らかになってくる、ということを教えてくださっているのです。
念仏に出会い自分自身では知り得ない本当に我が身を知っていくことが私たちには大事なことです。
今、社会全体が厳罰化の傾向を強めています。裁判所も同様で、いわゆる凶悪事件は減少しているにもかかわらず、死刑判決は増加しています(10年前の2.8倍)。死刑のハードルは明らかに下がっているのです。
真宗大谷派は死刑廃止を表明しています。いかなる命も奪ってはならない、奪わせてはならないと主張する仏教に、親鸞に学ぶ仏教徒としてある意味当然の姿勢ですが、同時に、加害者が生きて償うことでしか、被害者遺族が本当に教われることがないと考え、償いと赦しの可能な社会を築こうと声明で訴えています。
裁判員裁判それ自体にも疑問や問題点があるように思われますし、裁判員に選ばれるかもしれない私たちが、死刑制度や厳罰化とどのように向き合うのかを明らかにするためにも、裁判員制度の最も基本的なことから学び、私たち自身の姿勢を確認しようと思います。多数の宗教者、市民の皆さんに集会への参加を呼びかけます。
日時 2009年5月30日(上) 【開場】13:00 /【開会】13:30 /【終了予定】16:30
会場 大谷婦人会館 比叡の間(3階)
〒600-8164 京都市下京区花屋町通鳥丸西入るL柳町215 tel.075-371-6181
講師 小田幸児さん(弁護士)
笹原恵さん(静岡大学情報学部准教授)
ユ・ヨンジャさん(真宗大谷派僧侶)
主催 ナムナム大集会実行委員会
協賛 真宗大谷派死刑廃止を願う会 真宗大谷派九条の会
市民公開講座
テーマ「現代といのち」
【宮井清暢先生からのメッセージ】
この5月から、いよいよ裁判員裁判が始まります。裁判長制度については、刑事裁判への「市民感覚」の注入を期待する声がある一方で、さまざまな問題点や懸念が指摘されており、実施を延期すべきという意見や、早期の抜本的な見直しを求める声も少なくありません。国民の理解も十分とは言えず、裁判員に選ばれた人はもとより、国民の大半が不安を抱えた中でのスタートとなります。また、この制度の対象となるのが刑事事件であること、とりわけ、死刑や無期懲役に相当する重大犯罪であることから、この制度のゆくえは、「治安」に対する国民の意識や、死刑制度の是非をめぐる今後の世論の動向にも、重大関わりをもつことになると思われます。
この講座では、裁判員制度が導入された背景や目的、経緯、この制度の概要と特徴、裁判長の権限と義務などを説明したうえで、裁判員制度の導入によって目本の刑事裁判のあり方がどのように変わるか、憲法や刑事手続の基本原則の観点からみて、裁判長制度にどのような問題点があるか、裁判長制度の導入が私たちの日常生活や社会に対してどのような影響をもたらすか、などの点について考えてみたいと思います。
講師 宮 井 清 暢氏(富山大学経済学部教授)
講題 「裁判員制度一何か問題か一」
日時 4月25日(土)午後2時~午後4時
会場 射水市大門総合会館
(射水市大門67 ℡ 0766-52-0564)
講師略歴 1959年 富山県黒部市生まれ
1981年 早稲田大学法学部卒業
1988年 早稲田大学大学貌博士課程修了
※ 愛知学院大学法学部教授を経て、
2005年より富山大学経済学部経営法学科教授
著書(共著)として、『現代目本の憲法』(法律文化社、2009年)など
聴講無料
皆様お誘い合わせてお越しください
《主催》真宗大谷派高岡教区教化委員会《共催》高岡教区第8組
問い合わせ 高岡市丸の内2-15高岡教務所内 TEL 0766-22-0464)
新作DVD 『承元の法難』堂々完成!!
いまから、およそ800年前
国家権力の支配下にあった平安仏教に終止符を打って、
鎌倉浄土仏教を確立した吉水教団は、
時の『体制権力』によって弾圧・解体され、
法然上人医か、師弟十数人が
死罪・流罪に処せられた
親鸞聖人流罪八〇〇年
承 元 の 法 難
脚本:伊勢谷功 撮影・音楽:菅原龍憲 編集:毛利慶典 題字:和田至紘
ナレーション:藤塚昭久 朗読:森山潤久 濱田博徳
本願念仏の教えにいのちをかけた、
浄土真宗の開祖・親鸞聖人の生涯をとおして、
『民衆の新の目覚め』を、つねに妨げてきた『体制権力の猛威』を、
承元の法難を中心に据えて描く、現代人の御伝鈔
収録時間 45分
協力金 一枚2.500円
発行所 「承元の法難制作委員会事務局
〒694-0064大田市大田町大田 口550
〒922-0411加賀市片山津温泉砂走 チ51
浄土の供養
現代において仏教と私たちをつなげているものに「供養」ということがあると思います。しかし供養という言葉ぐらい誤解されて使われているものは無いのではないでしょうか。
本来、供養とは「食物や衣服を仏法僧の三宝に供給する」という意味です。決して、亡くなった人から祟られたりすることから自分を護るためのものという意味はないのです。それがいつの間にか、供養が祟りと災いから、自分の身を護るための道具にされてきたのです。
供養は顕彰すればよい、故人の功績や善行を讃えればよいというものではありません。言い換えればただ単に良い人だったといっておればよいものではないと私は考えます。故人が私に願われてる願いに仏様の教えを手がかりにして訪ね頷いていくことが大切だと思うのです。
私たちの宗祖親鸞聖人は、「還相廻向」ということをいわれます。阿弥陀仏や浄土の人々からから私たちに浄土に生まれよという願いが掛けられていることを 教えてくだされています。私たちは先祖や仏様に色々と願い事をします。私が幸せになりますように、成仏してください、みんなが幸せになりますように...等々 色々お願い事をするものです。願い事が叶うかどうかということを別として。ある意味私たちが仏様などにお願い事をすると同じように仏様、そして浄土におら れる先祖の方々もお願い事をされています、私たちに。私たちに願いを掛けておられるのです。その願いに気づいていくことを私たちの先祖の方々は大事にされ てきたのです。先祖が敬うべき存在であったことに気づきそのことに頷きつづけていくことが私たちには大切なのでしょう。
先祖はほめたたえておけばよいのではなく、尊敬すべき、供養すべき存在として出会い直してくことが大事なのです。先祖の導きの声を念仏の歴史を通して聞 き取っていくこと、先祖の生き様に学び私が求めるものを明らかにさせてもらうことが大事なのです。時には悪いことを身をもって教えてくださったこともあっ たでしょう。
先祖が犯した間違い、そして犯した罪を罪と認め、自分たちが二度と繰り返さないと誓い、歩んで往くことも先祖が喜ばれることの一つでしょうし、大切な供 養の一つとなることでしょう。戦争を二度と起こさない、すなわち「殺さない、殺させない、殺されない」という歩みは私たち日本に住むものにとって本当に大 切な先祖を供養するという歩みになることでしょう。また大切な先祖の顕彰なのです。

信じるということ
私たちの教え、浄土真宗では「信心獲得」すると言うことが私たちが一番しなければいけないこととされています。信心とは阿弥陀仏を信じる心、その心を体得することが私たにとって一番大事なことなのです。しかし、信、信心という言葉に対する誤解が合ったことに最近気づかされた私です。
私たちの信というのは信頼という言葉で言われるようなものです。自分の思いにかなったものを信頼したり、また自分の思いから外れると裏切られたと思ってしまいます。私たちは信頼できると自分が判断したときにのみ少し信頼しようと思います。それはどこまでいっても自分の思いから越えた信ではありません。浄土真宗の信は他力の信心といわれるように自分を越えたところにおこる信頼です。ですから私たちが思うような信とは違うということなのでしょう。
仏教に関する辞書を開いてみると、「心を澄んだ浄らかなものにする作用」という風にかかれていました。お経の中にかかれている「信」という字は、もともとインドも昔の言葉の「シュラッダー」という言葉を翻訳したものだそうです。そのシュラッダーという言葉を日本の言葉に訳すると、心を澄んだ浄らかなものにする作用となるそうです。人汁ということの内実は心がきよらかになっていくということといえるのではないでしょうか。今まで濁っていたものが少しずつ澄んでくる。今まで濁って見えていなかったものが少しずつ見えるようになってくることを信ずることと言っても良いことでしょう。
何が見えてくるのかといえば真実ということなのでしょうけど、宗祖親鸞聖人の「念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ、おぼえそうらえ。よくよく御こころえそうろうべし」ということをたよりにして考えると、真実が見えるとは自分の心の悪いところが見えてきて、さらに世の中におこっていることに厭わなければならないことがたくさんあることを思い知らされることなのでしょう。
浄土に何故自分が生まれなければならないのかということがはっきり見えてくるからこそ阿弥陀仏を信じることが出来るのでしょう。
厭うとは、いやに思う・いやに思って避けるという意味がありますが、もう一つ、大事にする・いたわるという意味があることにも注意しなければらならないと思うことです。
ご命日の集い三月から再開します
ご命日の集いとは私たちの宗祖、親鸞聖人のご命日である二十八日に開催する仏事です。常入寺では三月から九月の間の毎月二十八日に勤めています。何をやっているのかといえば、実は難しいことは何もありません。宗祖親鸞聖人がお造りになられた「正信偈」といううたをみんなで節を付けて読んで、後はお茶を飲んでいるだけです。
それだけです。
皆さんも月に一度お寺に集いお茶しませんか?
どうぞお気楽に顔をお見せ下されれば幸いです。お待ちいたしております。
毎月二十八日午後二時~三時ぐらいまで
とにかく一回来てくだはれまっ! たのんちゃぁ
城端別院法宝物御巡回布教
日 時 三月六日(金) 午前9時30分より 午後3時30分まで
会 場 常入寺庫裡座敷
布教使 未定
インターネットや携帯が急速に普及し、私たちの生活の中に深く意は入り込んでいます。有用で便利であることは言うまでもありませんが、その一方で、こうした道具・手段から取り残された人たちの問題や、他人を中傷する悪質な書き込み、犯罪への悪用など多くの問題が指摘されています。
日本では昨年8月からグーグル社が、地図上のある地点を選ぶと道路沿いの風景が360度の方向から閲覧できるストリートビューというサービスの提供を開始しましたが、そこには事前通知や撮影通知もなく勝手に撮られた民家や敷地内の様子、車などが映し出され、人権上の問題を指摘する声も出てきています。更には、児童ポルノなどの"有害"情報の氾濫に対しては、青少年に"有害"として政府も業界も規制に向っています。
今回の市民人権講座では、こうしたインターネット社会が抱える諸問題について、人権の観点から、どのように考え、どのように向き合っていけばよいのか、小倉利丸さんにお話ししていただきます。
なにとぞ、お誘いの上、ご参加ください。
日時 2009年3月13日(金)午後3時30分~5時00分(受付開始午後3時~)
会場 富山東別院会館・研修ホール(富山市総曲輪2-8-29)
会費 1,000円
演題 『インターネット社会と人権』
講師 小倉利丸さん(富山大学教員)
~~講師の主な著書~~
『支配の「経済学」』(れんが書房新社)、『危ないぞ!共謀罪』(共著・樹花舎)
『監視社会とプライバシー』『路上に自由を 監視カメラ徹底批判』(インパクト出版会)
『エシュロン-暴かれた全世界盗聴網』(七つ森書館)、『転覆の政治学 21世紀へ向けての宣言』(共著・現代企画室) その他多数
主催 部落問題にとりくむ富山県連絡会議
☆ 部落解放にとりくむ富山県連絡会議(通称:富山解放連)
富山県下で『部落解放にとりくむ各界・各層の広範な相互連絡を深めると
共に、協力関係を拡大、推進し、部落問題の速やかな解決を図る』ことを目的として、1986年3月に結成されました。被差別部落大衆をはじめとし、企業や
宗教関係者、労働者、市民など幅広い層の団体・個人によって構成されています。結成以来22年、学習会・市民公開講座の開催や会報の発行などの取り組みを
行っています。
☆ 会員になってください。会員加入を呼びかけてください。
団体、個人を問わず、会員加入を呼びかけています。年会費[4月から翌年3月まで]は一口1,000円で、団体にあっては5口以上、個人にあっては1口以上をお願いしています。
富山解放連事務局:富山市総曲輪2-8-29真宗大谷派富山教務所内 電話076-421-9770(三枝)
阿弥陀如来が佛と認められるときに誓った誓願を本願といいます。また私たちが正依にしている経典、仏説無量寿経にはその誓願が四十八通りの誓いから成り立っているので四十八願ともいいます。この本願をもとに阿弥陀仏の浄土という世界が建てられています。そういう意味で言えば本願は浄土の憲法ともいうべきものであります。その本願の中心的誓願が十八番目に誓われていて、念仏往生の願(誓願)といわれています。
阿弥陀如来は以前は法蔵菩薩という菩薩様でした。法蔵菩薩は仏になるため世自在王仏という仏様に使えて仏となるための勉強を五劫という私たち人間の思いをこえた長い時間の間されました。法蔵菩薩の学びは、自分は何故仏になりたいのか、仏になって私は何をしたいのか、という自分の思いの奥底にある願いを訪ねるような学びでした。そのためにすでに仏となられた方々の浄土の世界、その世界の人々を観察されたのです。そして本願をあらわされたのです。
阿弥陀仏は本願の第十八番目には「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。」と私のつくった浄土に本当に生まれたいと心の奥底から願った者がいるのなら皆生まれさせたいと誓われ、そしてその違いが今すでに成就しているのです。
日 時 2009年2月6日(金)午前9時30分より午後3時30分ぐらいまで
場 所 常入寺庫裡座敷
布教使 藤井乗師
良く考えれば、一年があっという間なのではない、一ヶ月も、一週間も、一日もみんなあっという間だったのだ。 だから多分 この世の生を終えるとき自分の一生を振り返ると同じようにあっという間だったように感じるのではないだろうか。自分の一生は何だったのだろうかと恐ろしく、そして勿体なく思えるのではないだろうか、このままでは。
大事なのはやっぱ、一日一日を大事に生きること、ひとときひとときを大切にしていくしかない。そうなのだろうけど、でも、 そう思っていてもいつの間にか忘れていってしまうのでは。おろそかになってしまっているのではないだろうか。この正月にそう誓っても、来年も今年こそはと思いおなじことを誓ってしまうのではないだろうか。そしてその次の歳も、また次の歳も、ずっと繰り返されるような気がしてならない。
悲しくなってしまう。
一日一日を大事に行くていくためにはあっという間の人生、加賀tりあるいのちを渡したいかさせていただいているのだと忘れず、心に強く刻んで生きていくとも大切なのだろう。あっという間に人生にしないことを心がけるよりも、あっという間の人生が私だと気づきつづけていくことが大切なのだろう。
出来るときに出来ることをする、それしかないのかも知れない。失敗を恐れず歩み続けるとこ、歩みながら修正していくことがよいのではにだろうか。
止まらず、歩み続けること、チェンジ(Change)変化をたのしむことがあっという間の人生だと言わなくても良い秘訣なのかも知れない。
なむなむ大集会2が開催されるそうです。

流罪802年







