2009年アーカイブ

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「忌む」と言うことを考える

 「年忌」や「忌中」という言葉で使われている忌という漢字を私たちは余りよい意味として使っていないのが現状ではないでしょうか。嫌うもの、タブー、はばかるもの、避けるもの、というような意味合いで使うことがほとんどなのではないでしょうか。しかし本来はどうもそういう意味であったのではなかったようです。
 辞書を調べてみると忌みという言葉には「忌み避けるべきこと。禁忌。はばかり」という忌みもありますが、もう一つ、「神に対して身を清め穢れを避けて慎む事」というようにかかれています。そしてこちらの方が元々の意味であり、転じていって、嫌う、はばかるものと言うように変化していったようであります。
 身を清めるということや、穢れを避けるということは私たちの教えに基づくとふさわしくない言葉ですが、私なりにそのことを踏まえて訳するならば、身をただして取り組んでいくという意味あいが元もとその言葉の持っている意味であったのでははないでしょうか。
 そういう視点にて年忌と言うことを考えれば嫌ったり、はばかるべき年という意味ではなく、身をただすべき年と言うことになると私は理解しています。有縁の方がいのちを終えて行かれて三年経つ、七年経つ、そういう歳隔たった今、有縁の人々が命終えていくという事実を、身をただし改めて受け止めていく、自分が生きると言うことを考える仏事が、年期法要というものなのではないでしょうか。咨嗟がもたらす、災いなどを避けたり、自分の所に幸を運んでもらうようにするための仏事ではありません。有縁の方々の死という事実をとおして我がいのち、我が人生を問い仏法に聞く行事が法事であると私は理解しています。「忌中」ということも、何かを恐れて慎んでいる期間ではなく、死という事実に目の当たりにしたとき、我が死、我が生を身をただして考えていくときが忌中という期間なのでしょう、ですから、押しつけられるものでもなく、こうしなければならないということもなく、期間も定まってなく、自らの思いに基づいて行なうものなのでしょう。
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御  礼
10月31より11月1日まで当寺報恩講を催したところ、お忙しい中たくさんの方々にお参りをいただき、そして厚いご懇念をお運びいただき、誠にありがとうございました。心より感謝申し上げます。お運びいただきました御墾念は大切に常入寺の維持管理、そして運営のために使わせていただきます。今後とも常入寺維持運営にご協力いただきたくお願い申し上げます。 
                  常入寺住職 青井和成

11月23日(月)午前10時より午後3時30分まで
午前の部 午前十時より
尼講追悼会 午後二時より
午後の部 引き続き
 ☆法話は住職が行います。
 ☆尼講によって、
   お昼にお斎のもてなしがあります。
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報恩講厳修
 十月三十一日午後二時より 十一月一日午後四時まで
10月31日(土) 午後2時より 午後のおつとめ
午後6時より 親子の集い

11月1日(日) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのお勤め

★長寿者などを対象に自宅からゴボハンへ、ゴボハンから自宅への送迎サービス(無料)を実施いたします。前もって電話をいただければ係のものが迎えにまいります。是非ご利用ください。

お説教は昨年同様  松井 勇さん(南砺市)です。
お斎は11月1日あります。

ご近所の方をお誘いの上是非足をお運びください。
住職・役員 心よりお待ち申し上げております。
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御往生
先月、在所で百歳を超えたお婆ちゃんが亡くなられた。このおばちゃんは私にとって最後の昔からのお婆ちゃんだった。別の言い方からすれば小さい頃からお婆ちゃんだった、もうそういう人は私の周りにいない。大概、今お婆ちゃんをされている方、お婆ちゃんらしい人は昔私からすれば、アネハンやったり、オッカッチャンやった。だけど今は...、そんな人がいまはお婆ちゃんになっておらはる、でもその人は私の中ではお婆ちゃんの姿しか記憶にない。
縁ある人の死を迎えるとその人との出会いが思い出される。後ろでお参りされているときの姿。草またいされている姿。いっしょにお茶を飲んでいるときの姿、お茶といっしょに頂いた漬けもんの味、笑い顔、その他色々...。縁が深ければ深いほど色んな出会いが思い浮かんでくる。
もう自分の中に遺る思い出の中でしかあえない、その人と。そしてその思い出からこれから私をいろんなことを導いて下されることだろう。だから亡くなった方を仏さんといってこられたのだろう。浄土に生まれられるといわれてきたことなのだろう。これから私をお浄土へ導いて下される方だからこそ、浄土往生間違いないことだ。
でも私たちは何気なく長生きされて亡くなっていかれた方を「大往生だった」という言い方を使う。その言葉が少し気になる。そういう言い方をすることが悪いわけではないけど。自分たちが往生を評価していることが気になるのだ。阿弥陀の浄土はひとつしかない。だから大小はない、なのに...。反対に幼くしてこの世の生を終えていかれた方を小往生とでもいうのだろうか。思ったより早くこの世を去っていかれ残された私たちにとっては本当につらい別れだけど。小さい往生なのだろうか。そういう死からこそ世の無常の事実を我に力強くお教えくださる。そういう意味で尊いこと。
往生は大いなること、大いなる往生ということなら理解できる。そういう意味では誰の往生も大往生だ。死に方で往生が変るわけでは決してない。
私たちが気にしなければならないのは亡くなられた方の行き先、評価ではない。先輩方は浄土に行かれたといわれているのだからその言葉を頂いていくしかない。死後のことを考えることは我等の限界を超えていることなのだ。私たちが大事にしていかなければならないのは亡くなった人のことではなく、私が往生されていかれた方から何を聞き取っていくか、何を学んで聞くかということだと思う。我が身の往生のことこそが一大事なのだ。

大谷暢顯御門首による帰敬式が執り行われます
帰  敬  式(おかみそり)
受式者募集中
とき 2010年4月24日(土)午後3時30分より(受付は11時より)
場所 井波別院瑞泉寺(南砺市井波3050)
問い合わせ 真宗大谷派 高岡教務所(高岡市丸の内2-15 ℡0766-22-0464)
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【高岡教区御遠忌お待ち受け報恩講】
10月1日午前10時より
  法話 藤田誓壽 井波別院輪番
13時15分より 仏教讃歌
別院報恩講初逮夜終了後  記念講演
  講演作家詩人 青木新門氏
【井波別院報恩講】
一日 14時    初逮夜
二日 07時30分 晨朝    11時 日中
     14時    結願逮夜 19時 初夜(御伝鈔拝読)
三日 07時30分 結願晨朝 10時 帰敬式
    11時    結願日中
初逮夜・日中・結願逮夜・結願日中 信明院殿御連枝御参修
法話 二日 砺波市 法泉寺住職 秋知義正師
     三日  南砺市 妙連寺住職 竹部俊恵師
【高岡教区子ども報恩講】
10月4日(日)午前九時から正午頃まで
   ※終了後白玉ぜんざいをみんなで頂きます
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 最近芸能人が覚醒剤所持などの容疑で相次いで逮捕されたということがあってか、テレビなどのマスメディアでは覚醒剤などの特集を繰り返し放送している。それによると覚醒剤を常習すると脳神経を刺激し、その感覚を忘れることが出来ず、覚醒剤を依用したいという意識は死ぬまで取り除けないものなのだということを放送していた。一言で言えば本当に恐ろしい薬と言えることなのだろう。また私には意識はないけれども私たちの本当に身近なところにまで覚醒剤などがやってきているそうだ。ちょっと感覚を澄ませば覚醒剤を手に入れようと思えば簡単に手に入る環境になってしまっているらしい。本当に恐ろしいことだ。
 また、覚醒剤などの使用を防止するためににか、覚醒剤を所持したり使用したりして逮捕されると一般の社会人として生活していけないということも、何度も何度もいっている。また芸能人の逮捕者などは見せしめみたい感じでも扱われている感も否めない。覚醒剤などを使用する犯罪についてもう一つ大事にしていかなければならないのは、覚醒剤をやめたいと思っているけれどもやめることの出来ていない人たちのケアーだと思う。ただ単に犯罪者に仕立てていくだけではいけないような気がしてならない。
 私は覚醒剤を一人でも使用する人を減らすために私たちが理解していかなければならないことは覚醒剤などを始めるときの気持ちではないかと思う。単なる興味だけから始める人はほとんど少ないそうである。端的な言葉で言えばすっきりするために始める人が多いそうだ。「これでいいのだろうか」というような不安からくる心にガスのようなものがかかった状態を何とかするために始めるそうだ。不安を亡くしたいという誰にでも持っている気持ちから覚醒剤を使用しようという気持ちになっていくということになる。そういう意味で言えば誰でも覚醒剤を始める種を持っているということになる。覚醒剤をやっているのは特別、特殊な人たちと見て行くのではなく、自分と同じ心を持つものとしてみていくことが大切なことなのではないだろうか。
 私たちは悶々とした思い、これでいいのだろうかという不安心をなくそう、すっきりさせようとしてしまうものです。しかし念仏を称えられてきた先輩方は、すっきりするために努力されてきたのではなく、悶々としている元を訪ねて行かれています。なくそうとされたのではなく向き合って行かれたのです。その悶々している心をたよりに自らを見つめていかれ、念仏を称えなければならない我が身に気づいて行かれています。
 悶々とした心をなくしすっきりしたいいのならば、コカコーラやサイダーを飲んだり覚醒剤に走るしかないでしょう、しかしどの方法も一時的なものであったり、その場しのぎ的なものでしかありません。どれも特効薬ではなく感覚を麻痺させるに過ぎない道具です。
 もし悶々とした思いと真向かいに向き合いたいのなら、念仏の歴史の流れにはいり身を任せることが一番良いことでしょう。そして悶々とする気持ちの大切さに気づき、心から念仏を称えることが出来ることでしょう。
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※チラシは原稿段階のものだったので、日程の時間帯が違ってます。
自殺について考えてみませんか?

啓 残暑の候、皆様方には益々ご清祥のことと拝察いたします。
 今、社会の出来事に目を向けてみますと、1998年より自ら命を絶っていかれる方が毎年三万人(警察庁の統計による)を超えています。今年も半年間で一万七千人を超えました。この数字は、人口1,000人に対し、3,4人の方が自殺していることになります。このような社会現象ともいえる自殺について、誹謗中傷や偏見、差別があることや、医学的な見識について、私たちは知っているでしょうか。
私たち解放運動推進小委員会では、長年部落差別問題等に学んで参りました。その中で知らないことの罪、また知らないということが差別の温床となることを知らされました。
そこで今回、防衛医科大学校教授で現役の精神科医でもあります高橋祥友先生をお迎えして、「自殺予防の基礎知識」と題してお話しいただきます。
つきましては、下記のとおり開催いたしますので、皆様お誘いあわせてご参加いただきたく、ご案内申し上げます。                                  合掌

高橋祥友先生からのメッセージ
1998年以来わが国の年間自殺者総数は3万人台が続き、この数は交通事故死者数の約6倍に及びます。残念ながら、わが国は世界の中でも自殺率の高い国のひとつになってしまっています。さらに、未遂者数は既遂者数の少なく見積もっても10倍に上ります。また、自殺や自殺未遂が起きたために、遺された多くの人々が心の傷を負ってしまいます。自殺予防の基礎知識とともに、遺された人々へのケアについて解説したいと思います。


1 名 称 解放運動推進研修会
2 日 時 2009年9月26日(土)午後2時から
3 会 場 高岡商工会議所802号・803号室
4 講 師 高橋 祥友 氏(防衛医科大学校教授・医学博士・精神科医)
5 講 題 「自殺予防の基礎知識」
6 日 程 14:00 開会・挨拶
      14:05 講義 高橋 祥友 氏       
      15:45 質疑応答
      16:00 閉会
7 聴講費 1,000円
8 駐車場 高岡教務所又は高岡商工会議所
この研修会は、大谷派教師陞補(一種)対象の研修会でもあります。
高岡教区教化委員会

キャパが100人ぐらいだということで、もっと多くの人々に呼びかけようということになって、チラシを作り替えました。
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 先月七月はよく雨が降った印象が強いですね。ご存じの方も多いと思いますが、寺の横にあるうちの畑も畑というよりは草原になってしまいました、これは今年に限ったことではなく毎年のことかも知れませんが...。雨ばっかり降って雑草の成長が早い、雨が降るから畑に行けず草が刈れない、そういうことの繰り返しで大変なことになってしまってます。雨のせいで畑がこうなってしまったのだと雨だけのせいにしたい思いが強いです。そういうことを言い訳に出来るぐらい本当に雨の日が続いた月が七月ではなかったでしょうか。つい「異常気象」と言いたくなります。
 異常という言葉はつねと異なる、いつもと違うという意味ですけど、でも私が思う常、当たり前というのは本当に常のことなのでしょうか。今年はいつもと違う天気だと私たちは言うわけですけど、私たちが言う「いつも」というのは私たちが経験している間のいつもでしかないのではないでしょうか。私の経験の中だけで私が勝手に判断したいつもでしかないのではないでしょうか、私の人生の中ではいつものことなのかも知れませんが、もっと長い歴史、人間の歴史を≒にしてみれば、また地球の歴史という視点で考えればそれは本当にいつものこと言えることなのでしょうか。私が異常と思っていることが実は長い歴史の眼で見ればいつものことであり得ると言うことがあるかも知れないのです。
 このことは気象現象についてだけに当てはまる話しというわけではないのではないでしょうか。すべてのことに於私が思っている当たり前の事というのは私の経験で想像しているものに過ぎないのかも知れません。そして自分の想像にしか過ぎないことにも気づかず、人に押しつけたりいろんなことを自分の抱え込んでしまっている私の常識で善し悪しと判断していることが多いのではないでしょうか。
私が判断している善し悪しと言うこともその奇人が私の少ない経験の中から師は判断していない、私の善し悪しの編んだんも結構あやふやなことと言えるのかも知れません。
 私が抱え込んでいる当たり前をホンモノの当たり前にしていこうとするときは、私のあやふやさに頷き続けていくことが何よりも大切なことだと私は思います。そして自分と立場の違う人と相手を認め合いながら対話して他の人が抱え込んでいる常識に出会っていくことからしか始まらないのではないでしょうか。
 善導大師というお方は「経教はこれ鏡にあとうるなり」と教えてくださり、お経に書かれているお釈迦さまの教えを聞くことによって私の無明なるすがた、自分の愚かさに気づいてゆきなさいとお教えくださってます。自分の抱え込んでいる常識は間に合わない、自分にとって都合の良いものだと言うことを経典を良く事を通して、また私に先立って念仏を称えてくださっている方と出会うことを通して気づいてゆき、真実へ近付く歩みをあきらめず少しずつすすめて行かなければならないことだと思うのです。
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第1弾
おやこのつどいby
                     ながしそうめん
昨年は休みましたが、
ながしそうめんことしも やりま~す
にちじ 8がつ6にち(もく)
ごご6じからはじめます。
9じ しゅうりょうよてい

さんかひ  500えん

ばしょ  じょうにゅう寺
                          (あおいのてら)

第2弾
お寺であそぼ
               ―巡回子ども会―

京都(きょうと)にある大谷(おおたに)大学(だいがく)のお兄さんお姉さんがみなさんと楽(たの)しくあそぶためにお寺に来てくだされることになりました。
めっちゃたのしいよ! まってるよ~!

にちじ 8がつ18にち(火ようび) 午前10時より
さんかひ 無料(むりょう)
ばしょ  じょうにゅう寺(あおいのおてら)
ないよう ゲーム・紙しばい・人形げき など
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カミングアウト(Coming out)とは、これまで公にしていなかった自らの出生や、病状、あるいは性的指向を表明することをいいます。またカムアウト(Come out)ともいいます。もともとは「(引きこもっている)クローゼットの中から出る(カミング・アウトする)」という意味のアメリカの隠語から来ているそうです。(Wikipediaを参照)
 ただ人が隠したいこと人の心を察せずに無神経に暴露していくということには嫌悪感を感じますが、本人が隠そうとしていることを自ら表明していくことは大切なことなのでは思う今日この頃です。
 今年の春、知人達とバスで旅したとき友人がバスの中でふと話されたことがあります。それは、自分の近所の人が長い間、自分が糖尿病であることを隠し通され、結局こじらせてしまい亡くなっていかれたとおっしゃったんです。他人事でない私はドキッとしました。
 でも私の場合は幸い隠すことなくいるので、それなりにいろんな人が色んな表現で気を遣ってくれます。だから食べ過ぎて血糖値を上げつづけるということなく症状を安定させることが出来ています。もし自分も隠し通していたり、自分が高血糖症であることに気づいていなかったらどうでしょう。法事のあとのお斎の席でも、自分の症状を隠そうとすると無理して食べたり飲んだりしてしまわざるを得ません。そうならば病状を悪化させていくだけなのでしょう。
 しかし自分の症状を知っていてくれたり、そして自分の症状を隠さず表明していくと人が気をつかってくれたり、自分で食べることに当たり前のように気をつけることが出来るのです。とにかく健康な人間のフリをする必要は全くないのです。
 何かのフリをするっていうことは結構つらいことです。それは自分を隠すということですから。嘘をつけばその嘘をついたことを隠すためにどんどん嘘を積み重ねていかないことといっしょで大変疲れることです。気が休まることがありません。そうなると精神衛生上よいこととは決していえないことでしょう。
 隠しておきたいこと自分を偽らなくてはならないことは思い切って表明していくことが私が私として生きるためには大切なことです。
 また、自分の親しき人でも、自分を偽ったり、隠したり、悩んでいることがある可能性があることを心のどこかに刻んでおくことは大切なことではないでしょうか。自分は自分の少ない経験の中でいろんなことを推測したり、無智なるところでいろんなことを考えている私であることに気づきつづけることが、親しき人がその人らしく生きるためには大切なことなのではないでしょうか。
 カミングアウトすることの大切さ、カミングアウトを受け入れる環境を私たちが作り続けることの大切さをつくづく思っているわけです。
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祠堂経会厳修
二〇〇九年六月二十八日午前十時より
二十九日午後四時まで
六月二十八日
    午前の部、並びに祠堂のお勤め
                                午前十時より
    尼講のお勤め            午後二時より
    午後の部                    引き続き
六月二十九日
    午前の部のお勤め    午前十時より
    午後の部のお勤め        午後二時より
※二十八日は尼講による昼食の振る舞いがございます。

それぞれのお勤めのあとに法話があります。(午前の部十二時頃、午後の部四時頃終了予定です)
法話は、両日とも婦中町の寳堂寺住職の篠川 弘一さんにお話しを頂きます。

祠堂経会開催中二日間 皆さんといっしょに聞法いたしたいと思っています。
ご近所の方々をお誘いの上お参りください。お待ちいたしております。

祠堂について
お寺に寄附をすることを祠堂といいます。どうも祠堂銭という言い方を以前はしていたようです。身内が亡くなられたことを縁としてお寺に祠堂されることが多いです。いつ祠堂すればよいのですかと聞かれることがありますが、寄附ですので、しなければいけないこともありませんし、いつということも決まってはいません。思い立ったときお寺にお持ちいただければよろしいです。また金額もお気持ちをお入れください。多い少ないということはありません。祠堂しようというお気持ちがお寺にとってこの上ない喜びです。
 常入寺では祠堂を頂いた方々に祠堂のお勤めを祠堂経会の初日にまとめてさせていただいています。今年の祠堂経会の時にと思われるのでしたら出来れば祠堂経会が始まる一週間前までに祠堂をしていただければ幸いです。準備の都合等がございますので、祠堂経会の当日祠堂いただいてもお勤めできないこともございます事ご了承ください。

『安楽集』に云わく、真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、
前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。(親鸞聖人)
念仏相続
 浄土真宗の寺院が建っている意義は念仏の声が未来永劫まで響き渡ることを願いとしています。その使命を全く果たそうとしていないものは浄土真宗の寺院と言えません。念仏のの声を皆さまにお届けすることがお寺の大事なお仕事であり、住職である私の重大な任務なのでしょう。
 念仏の声を皆さまのお宅にまでお届けする宅配業が浄土真宗のお寺と言っても言い過ぎではないと思います。またこのお寺は念仏の声を聞き、またその念仏の声に応えるようにナムアミダブツと念仏を称えてこられた方々によって相続されてきました。念仏を子や孫の世代の人々に称えてほしいと言う願いのもと相続されてこられたのです。
 そういう願いのもと相続されてきたお寺を住職として管理している私はそういう願いに応え続けたいと思わされます。また力不足の私であることも同時に知らされることです。
 私たちは沢山の念仏の声を聞いて育ってきました。今もなお育ちつづけています。念仏を栄養に成長しつづけています。
 しかし、念仏によって育っている私たちですが、私たちの口からあまり念仏の声が発せられなくなっています。阿弥陀仏の願いよりおこった念仏の声が今わたしの所まで聞こえているのですが、その歴史を途絶えさせようとしてしまっているのが私たちではないでしょうか。
 「今の若いもんは」とつい思ってしまう私たちがですが、そういう若いもんを作ったのは誰なのでしょうか、少なくても私たちの後ろ姿を見て育ったのが彼らです。私たちは彼らに何を伝えたでしょうか、何を相続すべきか伝えたでしょうか。
 その前に私たちは前に生まれた人々から何を受け取っているのでしょうか、何を相続しようとしてきたのでしょうか。今相続したと思っているものは前に生まれた人たちが相続してほしかったものなのでしょうか。
 何を受け継ぎ、何を残したいか、そういうことを念仏を称えながら一人ひとりが考えていかなければならないことなのでしょう。
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 5月14日から15日まで富山市内で北陸連区差別問題研修会が「戦争と性」というテーマのもと開催され、私も全日程参加いたしました。テーマについても色々学ばせていただき考えもさせられました。
 その中で講師のお一方が非僧非俗の非ということは解放されたと言うことだ、と教えてくださいました。私はその言葉にびっくりしました。私の思いの中では想定外の言葉だったからです。
 非僧非俗という言葉は宗祖親鸞聖人が自らの立場を語られたお言葉です。親鸞聖人は29歳の時、承元の法難により京都にお住みになられていましたが、越後の国に流罪にお遇いになられました。そのとき僧籍も剥奪されたのです。比叡山の僧侶であった親鸞聖人は公の僧侶、朝廷が認めた僧侶ですので僧侶のまま流罪に科することが出来ないため、まず僧籍を剥奪して俗人したわけです。そのことを縁として親鸞聖人は我は僧籍を朝廷より剥奪されたので僧侶ではない、だからといって俗人でもないのだと、自らの立場を「非僧非俗」と表現されたのです。
 そのことを講師の方は僧侶から解放され、俗人からも解放されたのが親鸞聖人だと教えていただいたのです。私の思いの中では僧籍を奪われたけども私は真の僧侶として仏道を歩んでゆくんだという反骨精神に近いものだと思っていたのですが、講師の方はそうは説明されなかったのです。俗人というカテゴリー(部類)でもない、僧侶というカテゴリーにも属さない、またそのことに執着しないものとして、まことの自由人として、まことの独立者として歩む決意が「非僧非俗であると教えてくださったのです。
 その言葉を聞いて私はドキッとしました。何かはっとして回りが明るく感じた思いがしました。
 宗祖親鸞聖人はあらゆることから解放され続けようと歩まれた方、あらゆることに執着しない、とらわれない生き方を念仏を称えられながら目指された方だったんだと知らされたひとときでありました。
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ご案内
富山解放連・第24回定期総会「記念講演会」
6/17(水)部落問題講演会
 私たち富山解放連では第24回定期総会を迎えるにあたり、広く呼びかけて下記のように部落問題講演会を開催します。何卒、お誘い合わせの上、ご参加下さい。
 この度は、近現代史を研究されている静岡大学の黒川みどりさんをお招きし、近現代の部落史をテーマにお話しして頂きます。黒川さんは、富山国際大学の藤野豊さんと共に『近現代部落史一再編される差別の構造』をまとめられて間もなく発刊されますが、同書に込められた黒川さんの研究成果や思いを講演して頂くことになっています。



 『近現代部落史一再編される差別の構造』黒川みどり・藤野豊編 有志舎 ¥2、800十税
 日本近現代史のなかに「部落史」を位置づけること、わたくしたちは、そのことを強く意識して本書を作成した。わたくしたちは、近現代史通史というと、ともすれば部落解放運動史になりがちであることに留意し、つとめて部落の生活、社会の差別意識の実態などにも言及した。また、部落問題を封建遺制とかケガレ意識の残存という過去の遺物ではなく、近現代が生み出した社会問題であるという視点を一貫させた。部落差別は今も解消せず、存在しているという現状認識に立って、なぜ、そうなのか、歴史を振り返って考察した。〔藤野豊さん〕                1


日 時  2009年6月17日【水】午後4時00分~5時30分
              [総会議事:午後3:10~3:50]
会 場  浄土真宗本願寺派富山別院(西別院)・研修室
     (富山市総曲輪2-7-12 電話076-421-6672)
会 費  無 料
講 題  『新しい部落史』
            講師 黒川 みどりさん(静岡大学教育学教員)
  主  催   部落解放にとりくむ富山県連絡会議
 

☆ 部落解放にとりくむ富山県連絡会議(通称:富山解放連)とは
富山県下で『部落解放にとりくむ各界・各層の広範な相互連絡を深めると 共に、協力関係を拡大、推進し、部落問題の速やかな解決を図る』ことを目的として、1986年3月に結成されました。被差別部落大衆をはじめとし、企業や 宗教関係者、労働者、市民など幅広い層の団体・個人によって構成されています。結成以来22年、学習会・市民公開講座の開催や会報の発行などの取り組みを 行っています。
☆ 会員になってください。会員加入を呼びかけてください。
団体、個人を問わず、会員加入を呼びかけています。年会費[4月から翌年3月まで]は一口1,000円で、団体にあっては5口以上、個人にあっては1口以上をお願いしています。
富山解放連事務局:富山市総曲輪2-8-29真宗大谷派富山教務所内 電話076-421-9770(三枝)


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ハンセン病訴訟勝訴8周年記念シンポジウム
今こそ考えようハンセン病
戦争とハンセン病

わたくしたちは、戦時下、沖縄で軍により銃剣を突きつけられて隔離された方々あるいは全国各地の療養所で総動員体制への参加を強制された方々の苦悩の歴史に心を痛めます。そして、その苦痛のなかから「人権を守ることは平和を守ることだ」との思いを強くします。
 今回、吉川さんや山下さんとのディスカッションをとおして、ハンセン病の方々の戦争体験を、なぜ、今、社会に伝える必要があるのか、みんなで考えましよう!

日時 2009年6月12日(金)午後6時開場 6時30分開演
会場 富山市民プラザ(4階アンサンブルホール 富山市大手町6-14電話076-493-1313)
パネリスト      吉川由紀さん(ハンセン病ネットワーク沖縄)
            山下道輔さん(多摩全生園 ハンセン病回復者)
コーディネーター  藤野 豊(ハンセン病ふるさとネットワーク富山代表)
日程  6:30 開会
      6;40 パネルディスカッション
           8:50 閉会

参加費 500円(資料代として)

主催:ハンセン病ふるさとネットワーク富山
    事務局 浄土真宗本願寺派富山別院(西別院)



趣 意 書
 2001年5月11日、熊本地裁は、ハンセン病患者・回復者に対する絶対隔離を規定した「らい予防法」は憲法違反であるとして、国に賠償を命じる判、決を下しました。これをもってハンセン病患者・回復者の人権が回復されたかに思えました。しかし、判決から2年半が経過した2003年11月、熊本県のホテルが、菊池恵楓園に入所するハンセン病回復者の宿泊を拒否する事件が起こりさらに、それに抗議した同園入所者自治会に対して差別的な手紙や電話が殺到し、私たちはあらためてハンセン病問題が未解決であることを痛感しました。
 今、全国の国立・私立のハンセン病療養所には約2700名の方が入所していますが、その多くがふるさとに帰ることができず、家族や親族とも会えない状態におかれています。各療養所の納骨堂にはふるさとの墓に帰れないたくさんの遺骨が眠っています。富山県出身者の多くもふるさとに帰ることができません。今なおこうした状態が続くのは、国の誤った絶対隔離政策のもとで自治体が患者の摘発を進め、地域住民もこれに協力したからであり、したがって、ハンセン病回復者への差別を一掃し、ふるさとに自由に帰られる社会をつくることは、国・自治体の責務でもあり、私たちひとりひとりの課題でもあります。
 今、全国のハンセン病療養所では入所者の高齢化とそれによる減少が進み、療養所の存続が危機にさらされていますが、昨年「ハンセン病問題基本法」が制定され、各療養所を地域に開かれた医療・福祉機関に発展させることが可能となりました。また、日本の旧植民地紋治下に韓国や台湾で隔離された方々への補償も実現しました。 しかし、その一方で旧「南洋群島」や旧「満州」、そ
の他日本のかつての占領地で隔離された方々への補償や、戦時下に日本車による隔離の果てに殺害された方々への謝罪と追悼はなされておりません。
 今回、私たちはこの事実を重く受け止め、来たる6月12日、熊本地裁判決の勝訴8周年を記念し、「戦争とハンセン病」をテーマにしたシンポジウムを開催いたします。パネリストにお招きした吉川由紀さんは、戦時下の沖縄で、日本軍がハンセン病患者を隔離した事実を膨大な軍資料と聞き取りから明らかにされてきました。また、山下道輔さんは1941年、子どもの時に東京の全生病院(現多磨全生園)に隔離され、戦時下のハンセン病療養所の過酷な生活を体験され、現在まで、隔離の実態を示す資料の保存に努力されてきました。おふたりに共通するのは戦争と差別を許してはならないという強い信念です。おふたりのお話をとおして、「人権を守ることとは平和を守ることだ」という
ことを心に深く刻み、戦争体験を今、社会に伝える意味を共に考えてまいりましょう。
 どうぞ、多くの方が、このシンポジウムに参加され、ハンセン病問題の根本的解決を目指し、県出身回復者の方々とふるさと富山を結ぶ絆を強くしていかれるよう、心よりお願い申し上げます。

2009年5月1日            ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山
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五帳目第一通⑧
 称名の称という字は私たち念仏の歴史の中にいるものは簡単に「となえる」と読んでいきますが、どちらかといえば本来は「たたえる」と読む場合の方がおおような気がします。また漢字が出来上がった歴史を訪ねていくと「はかる」という読み方が基本なのかも知れません。
 称名ということは声に出してなをとなえるということなのですが、ただ声に出して称えていれば終わることではなく、名にかなうように、名に近付くように称えていくことが漢字の意味を尋ねていくと大切なことでしょう。自分が助かっていく道具として念仏を称えていくということではなく、念仏によって救われていくのだ、阿弥陀の摂取不捨というすべてのものを摂めとり捨てないという広い願いによって、如来の大いなる悲しみによって私がたすかっていくのだと心に刻み阿弥陀如来の名を、南無阿弥陀仏ととなえていくことが大事なことなのでしょう。それが唱名でなく称名の所以なのでしょう。
 蓮如上人は「寝ても覚めてもいのちのあらん限りは称名念仏すべきものなり」と勧めてくださっています。それは義務という意味ではなく、阿弥陀の本願に出会ったとき私はつねに、いのち終わるまでいつもかも念仏を称えて行かなければならない我が身ということが明らかになってくる、ということを教えてくださっているのです。
 念仏に出会い自分自身では知り得ない本当に我が身を知っていくことが私たちには大事なことです。
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<ご案内>
 裁判員とはどういう事件を扱い、いったい何をするのでしょうか。また罪の有無や量刑までも私たちが決めるといわれていますが、何を基準に判断するのでしょう。これまでは一応、プロの裁判官による「法の裁き」が行われてきたのですが、市民感覚(私の感覚)を裁判に導入するということは、裁判によってバラバラの基準で裁くということにならないでしょうか。裁判の公平性、公正性はどのように保障されるのでしょう。まして私たちは、私の感覚で裁いた結果に確信を持つことができるでしょうか。
 今、社会全体が厳罰化の傾向を強めています。裁判所も同様で、いわゆる凶悪事件は減少しているにもかかわらず、死刑判決は増加しています(10年前の2.8倍)。死刑のハードルは明らかに下がっているのです。
 真宗大谷派は死刑廃止を表明しています。いかなる命も奪ってはならない、奪わせてはならないと主張する仏教に、親鸞に学ぶ仏教徒としてある意味当然の姿勢ですが、同時に、加害者が生きて償うことでしか、被害者遺族が本当に教われることがないと考え、償いと赦しの可能な社会を築こうと声明で訴えています。
 裁判員裁判それ自体にも疑問や問題点があるように思われますし、裁判員に選ばれるかもしれない私たちが、死刑制度や厳罰化とどのように向き合うのかを明らかにするためにも、裁判員制度の最も基本的なことから学び、私たち自身の姿勢を確認しようと思います。多数の宗教者、市民の皆さんに集会への参加を呼びかけます。


閻魔さまもご立腹!!
ナムナムシンポジウム
裁判員裁判と死刑制度
5・30
日時  2009年5月30日(上) 【開場】13:00 /【開会】13:30 /【終了予定】16:30
会場  大谷婦人会館 比叡の間(3階)
              〒600-8164 京都市下京区花屋町通鳥丸西入るL柳町215 tel.075-371-6181
講師    小田幸児さん(弁護士)
       笹原恵さん(静岡大学情報学部准教授)
       ユ・ヨンジャさん(真宗大谷派僧侶)

主催  ナムナム大集会実行委員会  
協賛  真宗大谷派死刑廃止を願う会 真宗大谷派九条の会


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高岡教区第8組2008年度同朋大会
6月6日(土) 午後2時より (受付1時30分)
会  場   聞 光 寺 射水市久々江91
テーマ   関係を生きる
講  師   長谷部 淳馨 師 七尾市 福勝寺
講  題   信心のたじろぎ
 
聴講無料 
坊守会による御遠忌ソング&シビ王と鳩と鷹もございます 
主 催   真宗大谷派高岡教区第八組・坊守会・門徒会・同朋の会

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市民公開講座


テーマ「現代といのち」

【宮井清暢先生からのメッセージ】
 この5月から、いよいよ裁判員裁判が始まります。裁判長制度については、刑事裁判への「市民感覚」の注入を期待する声がある一方で、さまざまな問題点や懸念が指摘されており、実施を延期すべきという意見や、早期の抜本的な見直しを求める声も少なくありません。国民の理解も十分とは言えず、裁判員に選ばれた人はもとより、国民の大半が不安を抱えた中でのスタートとなります。また、この制度の対象となるのが刑事事件であること、とりわけ、死刑や無期懲役に相当する重大犯罪であることから、この制度のゆくえは、「治安」に対する国民の意識や、死刑制度の是非をめぐる今後の世論の動向にも、重大関わりをもつことになると思われます。
 この講座では、裁判員制度が導入された背景や目的、経緯、この制度の概要と特徴、裁判長の権限と義務などを説明したうえで、裁判員制度の導入によって目本の刑事裁判のあり方がどのように変わるか、憲法や刑事手続の基本原則の観点からみて、裁判長制度にどのような問題点があるか、裁判長制度の導入が私たちの日常生活や社会に対してどのような影響をもたらすか、などの点について考えてみたいと思います。

講師  宮 井 清 暢氏(富山大学経済学部教授)
講題  「裁判員制度一何か問題か一」
日時  4月25日(土)午後2時~午後4時
会場  射水市大門総合会館
      (射水市大門67 ℡ 0766-52-0564)


講師略歴 1959年 富山県黒部市生まれ
       1981年 早稲田大学法学部卒業
       1988年 早稲田大学大学貌博士課程修了
       ※ 愛知学院大学法学部教授を経て、
       2005年より富山大学経済学部経営法学科教授
 著書(共著)として、『現代目本の憲法』(法律文化社、2009年)など

聴講無料

皆様お誘い合わせてお越しください

《主催》真宗大谷派高岡教区教化委員会《共催》高岡教区第8組
問い合わせ 高岡市丸の内2-15高岡教務所内 TEL 0766-22-0464)

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新作DVD 『承元の法難』堂々完成!!

いまから、およそ800年前
国家権力の支配下にあった平安仏教に終止符を打って、
鎌倉浄土仏教を確立した吉水教団は、
時の『体制権力』によって弾圧・解体され、
法然上人医か、師弟十数人が
死罪・流罪に処せられた


親鸞聖人流罪八〇〇年
承 元 の 法 難


脚本:伊勢谷功  撮影・音楽:菅原龍憲  編集:毛利慶典  題字:和田至紘  
ナレーション:藤塚昭久  朗読:森山潤久 濱田博徳

本願念仏の教えにいのちをかけた、
浄土真宗の開祖・親鸞聖人の生涯をとおして、
『民衆の新の目覚め』を、つねに妨げてきた『体制権力の猛威』を、
承元の法難を中心に据えて描く、現代人の御伝鈔
収録時間 45分
協力金 一枚2.500円
発行所 「承元の法難制作委員会事務局
      〒694-0064大田市大田町大田 口550
      〒922-0411加賀市片山津温泉砂走 チ51 


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浄土の供養
 現代において仏教と私たちをつなげているものに「供養」ということがあると思います。しかし供養という言葉ぐらい誤解されて使われているものは無いのではないでしょうか。
 本来、供養とは「食物や衣服を仏法僧の三宝に供給する」という意味です。決して、亡くなった人から祟られたりすることから自分を護るためのものという意味はないのです。それがいつの間にか、供養が祟りと災いから、自分の身を護るための道具にされてきたのです。
 供養は顕彰すればよい、故人の功績や善行を讃えればよいというものではありません。言い換えればただ単に良い人だったといっておればよいものではないと私は考えます。故人が私に願われてる願いに仏様の教えを手がかりにして訪ね頷いていくことが大切だと思うのです。
 私たちの宗祖親鸞聖人は、「還相廻向」ということをいわれます。阿弥陀仏や浄土の人々からから私たちに浄土に生まれよという願いが掛けられていることを 教えてくだされています。私たちは先祖や仏様に色々と願い事をします。私が幸せになりますように、成仏してください、みんなが幸せになりますように...等々 色々お願い事をするものです。願い事が叶うかどうかということを別として。ある意味私たちが仏様などにお願い事をすると同じように仏様、そして浄土におら れる先祖の方々もお願い事をされています、私たちに。私たちに願いを掛けておられるのです。その願いに気づいていくことを私たちの先祖の方々は大事にされ てきたのです。先祖が敬うべき存在であったことに気づきそのことに頷きつづけていくことが私たちには大切なのでしょう。
 先祖はほめたたえておけばよいのではなく、尊敬すべき、供養すべき存在として出会い直してくことが大事なのです。先祖の導きの声を念仏の歴史を通して聞 き取っていくこと、先祖の生き様に学び私が求めるものを明らかにさせてもらうことが大事なのです。時には悪いことを身をもって教えてくださったこともあっ たでしょう。
 先祖が犯した間違い、そして犯した罪を罪と認め、自分たちが二度と繰り返さないと誓い、歩んで往くことも先祖が喜ばれることの一つでしょうし、大切な供 養の一つとなることでしょう。戦争を二度と起こさない、すなわち「殺さない、殺させない、殺されない」という歩みは私たち日本に住むものにとって本当に大 切な先祖を供養するという歩みになることでしょう。また大切な先祖の顕彰なのです。
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信じるということ
 私たちの教え、浄土真宗では「信心獲得」すると言うことが私たちが一番しなければいけないこととされています。信心とは阿弥陀仏を信じる心、その心を体得することが私たにとって一番大事なことなのです。しかし、信、信心という言葉に対する誤解が合ったことに最近気づかされた私です。
 私たちの信というのは信頼という言葉で言われるようなものです。自分の思いにかなったものを信頼したり、また自分の思いから外れると裏切られたと思ってしまいます。私たちは信頼できると自分が判断したときにのみ少し信頼しようと思います。それはどこまでいっても自分の思いから越えた信ではありません。浄土真宗の信は他力の信心といわれるように自分を越えたところにおこる信頼です。ですから私たちが思うような信とは違うということなのでしょう。
 仏教に関する辞書を開いてみると、「心を澄んだ浄らかなものにする作用」という風にかかれていました。お経の中にかかれている「信」という字は、もともとインドも昔の言葉の「シュラッダー」という言葉を翻訳したものだそうです。そのシュラッダーという言葉を日本の言葉に訳すると、心を澄んだ浄らかなものにする作用となるそうです。人汁ということの内実は心がきよらかになっていくということといえるのではないでしょうか。今まで濁っていたものが少しずつ澄んでくる。今まで濁って見えていなかったものが少しずつ見えるようになってくることを信ずることと言っても良いことでしょう。
 何が見えてくるのかといえば真実ということなのでしょうけど、宗祖親鸞聖人の「念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ、おぼえそうらえ。よくよく御こころえそうろうべし」ということをたよりにして考えると、真実が見えるとは自分の心の悪いところが見えてきて、さらに世の中におこっていることに厭わなければならないことがたくさんあることを思い知らされることなのでしょう。
 浄土に何故自分が生まれなければならないのかということがはっきり見えてくるからこそ阿弥陀仏を信じることが出来るのでしょう。
 厭うとは、いやに思う・いやに思って避けるという意味がありますが、もう一つ、大事にする・いたわるという意味があることにも注意しなければらならないと思うことです。


ご命日の集い三月から再開します
ご命日の集いとは私たちの宗祖、親鸞聖人のご命日である二十八日に開催する仏事です。常入寺では三月から九月の間の毎月二十八日に勤めています。何をやっているのかといえば、実は難しいことは何もありません。宗祖親鸞聖人がお造りになられた「正信偈」といううたをみんなで節を付けて読んで、後はお茶を飲んでいるだけです。
それだけです。

皆さんも月に一度お寺に集いお茶しませんか?
どうぞお気楽に顔をお見せ下されれば幸いです。お待ちいたしております。
毎月二十八日午後二時~三時ぐらいまで
とにかく一回来てくだはれまっ! たのんちゃぁ


城端別院法宝物御巡回布教


日 時 三月六日(金)  午前9時30分より 午後3時30分まで

会 場    常入寺庫裡座敷

布教使    未定

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 インターネットや携帯が急速に普及し、私たちの生活の中に深く意は入り込んでいます。有用で便利であることは言うまでもありませんが、その一方で、こうした道具・手段から取り残された人たちの問題や、他人を中傷する悪質な書き込み、犯罪への悪用など多くの問題が指摘されています。
 日本では昨年8月からグーグル社が、地図上のある地点を選ぶと道路沿いの風景が360度の方向から閲覧できるストリートビューというサービスの提供を開始しましたが、そこには事前通知や撮影通知もなく勝手に撮られた民家や敷地内の様子、車などが映し出され、人権上の問題を指摘する声も出てきています。更には、児童ポルノなどの"有害"情報の氾濫に対しては、青少年に"有害"として政府も業界も規制に向っています。

 今回の市民人権講座では、こうしたインターネット社会が抱える諸問題について、人権の観点から、どのように考え、どのように向き合っていけばよいのか、小倉利丸さんにお話ししていただきます。
 なにとぞ、お誘いの上、ご参加ください。

日時  2009年3月13日(金)午後3時30分~5時00分(受付開始午後3時~)
会場  富山東別院会館・研修ホール(富山市総曲輪2-8-29)
会費  1,000円
演題  『インターネット社会と人権』 
                     講師 小倉利丸さん(富山大学教員)

~~講師の主な著書~~
『支配の「経済学」』(れんが書房新社)、『危ないぞ!共謀罪』(共著・樹花舎)
『監視社会とプライバシー』『路上に自由を 監視カメラ徹底批判』(インパクト出版会)
『エシュロン-暴かれた全世界盗聴網』(七つ森書館)、『転覆の政治学 21世紀へ向けての宣言』(共著・現代企画室) その他多数

主催 部落問題にとりくむ富山県連絡会議



☆ 部落解放にとりくむ富山県連絡会議(通称:富山解放連)
富山県下で『部落解放にとりくむ各界・各層の広範な相互連絡を深めると 共に、協力関係を拡大、推進し、部落問題の速やかな解決を図る』ことを目的として、1986年3月に結成されました。被差別部落大衆をはじめとし、企業や 宗教関係者、労働者、市民など幅広い層の団体・個人によって構成されています。結成以来22年、学習会・市民公開講座の開催や会報の発行などの取り組みを 行っています。
☆ 会員になってください。会員加入を呼びかけてください。
団体、個人を問わず、会員加入を呼びかけています。年会費[4月から翌年3月まで]は一口1,000円で、団体にあっては5口以上、個人にあっては1口以上をお願いしています。
富山解放連事務局:富山市総曲輪2-8-29真宗大谷派富山教務所内 電話076-421-9770(三枝)



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本 願
 阿弥陀如来が佛と認められるときに誓った誓願を本願といいます。また私たちが正依にしている経典、仏説無量寿経にはその誓願が四十八通りの誓いから成り立っているので四十八願ともいいます。この本願をもとに阿弥陀仏の浄土という世界が建てられています。そういう意味で言えば本願は浄土の憲法ともいうべきものであります。その本願の中心的誓願が十八番目に誓われていて、念仏往生の願(誓願)といわれています。
 阿弥陀如来は以前は法蔵菩薩という菩薩様でした。法蔵菩薩は仏になるため世自在王仏という仏様に使えて仏となるための勉強を五劫という私たち人間の思いをこえた長い時間の間されました。法蔵菩薩の学びは、自分は何故仏になりたいのか、仏になって私は何をしたいのか、という自分の思いの奥底にある願いを訪ねるような学びでした。そのためにすでに仏となられた方々の浄土の世界、その世界の人々を観察されたのです。そして本願をあらわされたのです。
 阿弥陀仏は本願の第十八番目には「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。」と私のつくった浄土に本当に生まれたいと心の奥底から願った者がいるのなら皆生まれさせたいと誓われ、そしてその違いが今すでに成就しているのです。

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井波別院巡回法座がつとまります。
日 時  2009年2月6日(金)午前9時30分より午後3時30分ぐらいまで
場 所  常入寺庫裡座敷
布教使 藤井乗師
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 年末よく、「一年もう終わるねぇ」」一年はあっという間だねぇ」とよく話しけていただいた。本当にそうだ。気づけばもう十二月なんだから。この一年何をしてたのだろう、と考えてもあまり出てこない。いわれれば、そうだった、と思い出すことは出来るが...自分一人で思いめぐらしてもそう出てこない。そしてついこの間が一月だったような感じがする。年をとればこの感覚がもっと著しくなるそうだけど、これ以上そうなるとどうなるのだろう。
 良く考えれば、一年があっという間なのではない、一ヶ月も、一週間も、一日もみんなあっという間だったのだ。 だから多分 この世の生を終えるとき自分の一生を振り返ると同じようにあっという間だったように感じるのではないだろうか。自分の一生は何だったのだろうかと恐ろしく、そして勿体なく思えるのではないだろうか、このままでは。
 大事なのはやっぱ、一日一日を大事に生きること、ひとときひとときを大切にしていくしかない。そうなのだろうけど、でも、 そう思っていてもいつの間にか忘れていってしまうのでは。おろそかになってしまっているのではないだろうか。この正月にそう誓っても、来年も今年こそはと思いおなじことを誓ってしまうのではないだろうか。そしてその次の歳も、また次の歳も、ずっと繰り返されるような気がしてならない。
悲しくなってしまう。
 一日一日を大事に行くていくためにはあっという間の人生、加賀tりあるいのちを渡したいかさせていただいているのだと忘れず、心に強く刻んで生きていくとも大切なのだろう。あっという間に人生にしないことを心がけるよりも、あっという間の人生が私だと気づきつづけていくことが大切なのだろう。
 出来るときに出来ることをする、それしかないのかも知れない。失敗を恐れず歩み続けるとこ、歩みながら修正していくことがよいのではにだろうか。
止まらず、歩み続けること、チェンジ(Change)変化をたのしむことがあっという間の人生だと言わなくても良い秘訣なのかも知れない。
<<教団と教学を考える協議会 >> メルマガ 67号に掲載されていました。
なむなむ大集会2が開催されるそうです。
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ナムナム大集会2 《いわんや悪人をや》 
流罪802年
 
3万人以上の自死者が10年にわたって続いています。
他方死刑制度の肯定の世論は80%以上といわれています。
日本という国は、自他に対する殺意あふれた国といわねばならないのではないでしょうか。
自他に対する殺意は、ある意味で私たちのもつ善意から発っているのではないでしょうか。
今歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」ということが問われています。
「悪」ということの意味を考えつづけてくださっているゲストを迎えての集会です。
「えらばず、きらわず、みすてず」とは竹中智秀師の常のおおせでしたが、裁く文化でなく、
赦(ゆる)す文化というようなことを考えたいと思っています。
 
日  時 2009年2月9日(月) 開場午後12時30分 開演午後1時
場  所 大谷婦人会館 3階和室
参加費 1000円 学生500円
 
◆節 談 「鹿ケ谷縁起」  戸次公正さん(大阪・南溟寺住職) 
◆シンポジウム
      辛 淑玉さん(香科舎代表取締役)
      金城 実さん(彫刻家)
      安田好弘さん(弁護士)
      玉光順正さん(真宗大谷派僧侶)
 
主催 ナムナム実行委員会
 

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