2008年9月アーカイブ

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弥陀如来
 弥陀如来とは言うまでもないことなのでしょうが、阿弥陀仏、阿弥陀如来のことを言います。
 阿弥陀如来は阿弥陀如来の救いにあずかりたいと思ったものすべてをすくい取るというお約束をされているお方です。いわばだれもをすくい取るお方なのです。
 しかし現代社会においては誰もをすくい取る阿弥陀如来の救いはあまり人気がないようであります。どちらかといえば、特別な人だけ、選ばれた人だけ、つまり限られた人が救われすという救いに人気があるようです。
 その原因のひとつには私たちの中流意識があるようです。私たちの住む日本は経済的に恵まれた国です。祭の日にぐらいしか出なかったご馳走が今や毎日のように食卓にのるようになり、毎日沢山の食材が廃棄されているのですから経済的に豊かな国なのでしょう。そういう環境に育っている私たちは高級品を好むようになり、「誰も」という言葉が響かなくなってしまったのでしょう。
 しかし、いのちを源とする食材を何の迷いもなく廃棄する私たち、地球上では食べようにも食べるものがないという生活をされている方が多くいる中で私たちは平気で食べ物を粗末にしています。そのような私たちは本当に救われて当然となる存在なのでしょうか。
 我が身の生き方を振り返らなければなりません。
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罪業は深重
 お念仏をとなえたは利益は?と聞かれると何となく困ってしまう。お念仏を称えたらとうなるのか!といういうことを意味する問いなのだけど。
 お念仏を称えることによって自分が徳をすることは何かと聞かれれば、何もないとか絶えざるを得ない。またお念仏を称えるとどういう人間になれるのかという問いも、変らないといわざるを得ない。「自分」という範疇の中で自分の思うとく、そういうものはお念仏を称えると何ももらえない。だからといって本当に何もないのかといえばそうではない。お念仏が親鸞聖人の時代から数えると七五〇年から八〇〇年続く。その中私たちの先祖はお念仏を喜んでこられたし、大切なものとしていただいてこられた。喜んでこられたということはお念仏を称えて何もなかったわけでは決してない。徳をしなかったわけでは決してない。
 キーワードは「我」。最近の若い人の言葉で言えばジコチュウ、自己中心的といういう言葉であろうか。自分を中心にして、自分の抱え込んでいる価値判断の中で考えれば念仏を称えた得は何もない、のだ。自分、我という枠を外すと、御利益が見えてくる、そういうことなのだ。言い換えれば自分という価値判断の中で考えればお念仏を称える御利益は自分にとって徳をするもの、気持ちよいものではない、ということである。
 お念仏を称えるといただける得は何なのかということを端的に言えば、「罪業は深重」という我を知らせてくださるということである。ジコチュウ的思考回路で考えれば、そんな自分を知りたくもないし、認めたくもない。でも、私たちの先祖、お念仏を称えてこられた先輩方はそのことを尊ばれてきたのだ。そういう御利益のお念仏を大切にしてこられたのだ。
 「罪悪深重」の我と気づいていかれ、そういうものを救うお仕事をなさるのが阿弥陀さまであるといただかれてこられたわけである。
お念仏を信じることが出来なくとも、お念仏を称えても喜びの心が湧いてこなくとも、せめて訪ねていこうではありませんか。お念仏の歴史を。罪悪深重の我と気づかせていただいたことを喜んでこられた人の気持ちを。罪悪深重の我ということに気づいていくことがどれだけ大切なことなのか、そういうことを訪ねていこうではありませんか。
 そのことがいずれ必ずわれがお念仏を相続することにつながることになるのです。

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