2008年7月アーカイブ

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ご法事にお遇いすると、その場では「にょせがもん、むにゃむにゃ...」と何を言っているかわかりにくいかも知れませんが、お経が読誦されます。お経とはお釈迦さまが私たちに説かれた教えが書き留められています。お釈迦さまのお弟子さんたちがお釈迦様の教えとして聞き取った言葉を後の時代文字に書き直したものがお経です。当然のことですが、はじめは昔のインドの言葉、お釈迦さまが使われていた言語で書き表されていました。それを中国の人が、私たちの言葉読みたい、書き表したいと思われ、何度も中国からインドへ経典を取りに行ったり、お経を中国の言葉に翻訳したりするという事業をなさいました。今私たちが目にしているお経様はそれです。日本では漢語をそのまま読み取るということが文化として以前はありましたので、お経が日本語に翻訳されるということはあまりさせませんでした。しかし漢語に親しむということが無くなった今、お経様が読誦されていても何を言っているかわからない、呪文を称えているようにしか思えなくなってしまっているのです。
法事においてお経を読誦する僧侶は仏様に向かって読んでいますので、一見すると仏様に捧げるものであるように見えますが、そうではありません。お経は仏様から現代を生きる私たちにたむけられているものです。読誦している僧侶も仏様の教えとして聞いているのです。僧侶も、参詣者も共に仏様の教えを聞くという事が形取られているのが法事です。
 先祖を供養するためにという願いで法事が勤められる場合が多いですが、その場でお経様が読誦されてきた願いを私たちは訪ねていかなければ行けません。お釈迦様の教えを教えとして聴き、相続していく歩み姿勢が何よりも尊いことなのでしょう。お経様を相続して、お釈迦様の教えを教えとして聞き続けていくことが先祖を供養することにつながると考えられてきたことでしょう。 法事を催し先祖の願いを訪ねていくことも法事を催す大切な目的です。自分の思いを先祖に向けていてもあまり意味のないことです。
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6月29日~30日まで当寺祠堂経会を催したところ、お忙しい中また天候の悪い中、たくさんの方々にお参りをいただき、そして厚いご懇念をお運びいただき、誠にありがとうございました。心より感謝申し上げます。また、お運びいただきました御懇志金はは大切に常入寺の維持管理のため、そして仏法興隆のために使わせていただきます。
今後とも常入寺維持運営にご協力いただきたくお願い申し上げます。

 
御文をいただく 其の二 五帳目第一通②
在家止住
 浄土真宗の特色を言い表す言葉として在家仏教という言葉があります。仏教は伝統的に一度出家をして厳しい修行を積みお釈迦さまと同じさとりを開こうと志すことが一般的でした。家を出る、自分の関係、家族友人、社会での様々な関係を捨てることが求められたわけです。ところが親鸞聖人が私たちに残してくだされた浄土真宗の教えは、出家しなくてたすかっていく仏教の教え、在家のまま、いろいろな関係を保ちながら救われていく教えといっても良いと思います。
 出家してお釈迦さまと同じ悟りをひらく仏教から、在家のままで仏の教えに従い救われていく仏教への転換とも言えると思います。お釈迦様と同じ悟りをひらくということは本当に魅力的なことであります。しかし悟りをひらくには素質ということも必要でしょうし、また出家できる環境、関係を捨てる勇気も必要なことでしょう。なかなか素質や環境に恵まれた人は少ないことでしょう。また今は末法といって悟りを導いてくだされる仏様も存在しない時代なのです。悲しいことなのですが。
 しかし、悟りをひらき佛にならなくとも、み佛のみ教えに従い生きていく道も救いの道の一つです。そのことを私たちの宗祖親鸞聖人が南無阿弥陀仏という念仏を称える歴史の中に発見されていったのです。そのことは限られた人だけが救われていく道から智慧才覚環境を問わず多くの人々が救われていく道への変わりめを意味するのです。在家の仏教は救いの質が落ちたのではなく、救いの裾野が広がったことを意味するのです。
 私たちは一度、我が身を振り返り、私には限られた人だけが救われていく道を歩むのか、あらゆる存在が救われていく道を歩むのか選ばなければ行けないことではないでしょうか。一度ゆっくり考えてみなければ行けないことです。質の高い救いとは、どんな事なのでしょうか。

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