2007年8月アーカイブ

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人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。

 これはお東のお坊さんがお説教の前に唱える三帰依文の最初の部分である。
 人としてこの世の生を受けることは能く能く考える取ると愛づらしいことである。でもわたしは今人として生きている。そして人として生きることのめでたさを教えてくれる仏教に出会うということもなかなか出会いやすいものであるとは言い難い。でもわたしの目の前に仏教の歴史がやってきている。このように私たちに教えくださっている言葉である。この言葉を聞くと「なるほど」と理解できるのである。しかし、そのことに頷いて生活している人がどれだけいるだろか。わたしも悲しいことだけれども頷けずに生きている一人である。
 お経というのはお釈迦様がお説きになられた教えが収められている本をいいます。今から約二五〇〇年前インドで私たちのために教えをお説きになられました。それを未来の人々に伝え残すために教えを聞いた人たちが集い文字に書きとどめました。それがお経の始まりです。いうまでもなくはじめは昔のインドの言葉で書きとどめられましたが、中国の人々が昔のインドの言葉で書き表してある教典を中国に持ち運び、自分たちの言葉に、書き改めるという事業を何度もしました。それが日本に伝わり、そして今私たちの目の前に届いているのです。
 今私たちが目にする多くのお経は漢文で書かれています。またそれをそのまま読誦することが多いですので、お経を見ても、聞いてもなかなか言葉の意味を簡単に理解することは難しいのが現状です。しかし私達の所に経典として伝わっていることは事実です。教典として伝わってきているということは教典という本が伝わっているという意味ではありません。お釈迦さまが、仏であるお釈迦さまが私たちの止めにお説きになられた尊い教えがわたしに伝わっているということです。少なくても、お釈迦さまを仏様として敬い、そしてお釈迦様がお説きになられた言葉を尊い教えとしていただかれた方々が次の世代の人に、わたしに教えとしていただいてほしいという願いの中で、その願いの連続の中でわたしのところに教典が現れているのです。
 私たちにとっては教典というのは単なる古典文学的な本でしかあり得ないのかもしれませんが、私たちの抱えている経験や使僧、その他のわたしが大事に抱え込んでいるものを打ち破って下されるものとしてであい直していかなくてはならないのではないでしょうか。
 善導大師様のお言葉に「経教はこれ鏡にたとうるなり」という言葉があります。このお言葉のように、教典に収められている教えにであうということは鏡のようにわたしの姿を映し出してくださる唯一のものとしてであうということなのです。
 私たちにはお経というありのままの我が身を映し出して下される鏡は先祖より手渡されています。あとは私たちがその鏡を鏡として使うか使わないかという選びだけなのです。
 

146.jpg お内仏のお世話⑪

仏様の前で座る

お仏壇の中で一番主役となるものはいうまでもなくご本尊である。お内仏をお飾りするにあたってなくてはならないモノはご本尊もそうだけど、お内仏の前で手を合わせる私たちだろう。
ご本尊がどれだけ尊いものであっても、どれだけ貴重な宝物であっても、そのことが尊い、宝物だって頷いている人がいないと尊い、宝物であるという意味を持たない。また次には伝わっていかない。仏様の絵像様がどれだけ掛けられていてもその絵像様を見てご本尊と戴く人がいないとご本尊ではない、仏様ではない。単なる掛け軸でしかない。その時点ではお仏壇も調度品、金箔を使った立派な家具でしかないのである。お仏壇がお仏壇であるためには、そしてご本尊がご本尊であるためには、仏様を仏様といただき、仏様の像が飾ってある物を仏壇といただける人がいて初めて仏様が仏様になり、仏壇になるのだろう。
仏様の前にただ座ればいいというものでもない。それはいうまでもなく仏様の前に座っているっていう自覚が必要だ。仏をイメージし仏様に念じる。そのためには説けとという存在は私にとってどんな存在なのかということをはっきりさせなければいけない。そのためには南無阿弥陀仏と念仏申されてきた先輩方に尋ねるしかないことだろう。そういう確かめのもと仏様の前に座るときいつの間にか手が合わされていることだろう。
以前お年を召したお方からおもしろいしつけについてお話を聞かせていただいたことがあります。それは、昔は今と違って朝御飯はどれだけおなかがすいてもすぐに朝ご飯を食べさせてもらえなかったそうです。阿弥陀如来様の前で手を合わせてこないとご飯を食べることが許されなかったそうです。またみんなで『正信偈』のお勤めが終わり、お文の「あなかしこあなかしこ」という言葉が終わらないと朝御飯は始まらなかったそうです。でもそういう厳しいしつけがあったからこそ今毎朝お仏壇の前に座らせていただけています。そういうお話を聞かせていただいたことがあります。今そういうご家庭はほとんどありませんでしょうし、そういうことをしなければならないっていうことは私は思いません。しかしその厳しいしつけの中において念仏申すひとに育ってほしいという願いが込められていたことは間違えのないことです。その願いを家族に伝えるっていうことは形は違っても私たちにはできるのではないでしょうか。
またそういうつよい願いがあって今わたしたちは念仏申す生活ができていることでしょう。
わたしたちは念仏申す人に出会い、仏というはたらきについて今からでも聞かなければいけないのではないでしょうか。仏をイメージして手を合わせるという行いを心がけていくことが今、大切なのではないでしょうか。

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