2006年9月アーカイブ

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浄土真宗の教えを一言であらわすとすると「他力本願」「悪人正機」という言葉になるでしょう。しかし誤解をして言葉の意味を理解している人も少なくはないのではないでしょうか。
他力本願という言葉を「人任せ」という感じで了解されている人は少ない内容です。通語としてはそういう頂き方もあるのでしょうが、しかし本来の意味からすれば全く頂き違いをしているといえることです。
「他力」という言葉は他人という意味ではなく、人間を超えた他なるはたらきのことをいうのです。すなわち阿弥陀仏を意味するのです。そして「本願」とは私たちのご本尊である阿弥陀仏が仏の位を授かるとき、仏になるにあったってたくさんの仏様の前で誓約をします。そのその誓約が認められ佛となられたわけですが、その時の誓約を本願といっています。またその誓いは私たちがより所としている経典には、四十八通りの違いが説かれていますので本願のことを四十八願ともいいます。
他力なる阿弥陀仏の本願をより所として、今生きているこのときを生き抜いていくことを「他力本願」と私たちの先祖、すなわち宗祖親鸞聖人の教えをタカラモノと私たち念仏を称えるモノにとってしてこられた方々は言ってこられたのです。本当に大切とすべき言葉なのです。
私たちが生きる力の源である、阿弥陀仏をたよりにして生きていくということは、何も考えず、また自分で何も判断をしないということではありません。反対に自分で考え、自分で判断することを言うのです。今生きてあることを、生かさせていただいていることを喜び生きることですから、授かったいのちによって生きている今を主体的に今生きてあることを喜び、生きてあることをタカラとして生きる生き方なのです。
一生懸命生きるとは、一生懸命悩み、一生懸命考えて生きることをいうのです。それが他力本願という生き方なのです。
各  位
長 崎 教 区 教 化 委 員 長   隈   部   悟
長崎教区教化委員会青少幼年部会主査  近 藤  章
青少幼年問題から問われるシンポジウムの開催について(案内)

 「青少年犯罪は時代を映す鏡」です。小中学生の犯罪が急激に身近になってきた。戸惑い立ち尽くしておるわけにもいかない。少年の闇は、私たちの闇です。いじめられ、いじめ、友を裏切り、タバコ、シンナーに走る。年間に3万以上の人が自死していくこの社会は重症です。
 学校や社会は、規則で縛りつけ、暴力で押え込んで問題が見えないようにする。幼児を死にまで追い込む親と、そのことを自己の問いにもできない私たち。そのような現実の中で、子ども達と向かい合える私であるために、集いまぜんか。
 学校の先生方、保護者の方、住職さん、若院さん、坊守さん、ご門徒の方々、保育士さん保育園の保護者の方々、お爺さん、お婆さん、特に若い人たち、一同に集まって語り合いましょう。
 さて今回は特に、愛知県より大河内祥晴さんにご足労願っています。大河内さんは12年前、ご子息を友のいじめによって、自死にまで追いやられました。その後、いじめに関わった人たちを自宅によぴ、仏前に座らせ現在まで共に歩んでおられる方です。コーディネーターとして大谷大字の佐賀枝夏文さん、九州大谷短期大学の加薄杠昴さんにも出席をおねがいしています。何かとお忙しいことと思いますが、趣旨ご理解のうえ、ご出席をお願いいたじます。みんなで語り合いましょう。


             記
1.日  時    2006年10月14日(土) 14:00?18:0 0
2.会  場    真宗大谷派(東本願寺)佐世保別院 
  〒857-0806 長崎県佐世保市島瀬町4-18
            ? 0956-22-4846
3.コーディネーター  大河内祥晴氏 佐賀枝夏文氏(大谷大学教授)
           加藤昴氏(九州大谷短期大学教授)他
4.参加対象   住職・坊守・寺族・ご門徒・幼稚園、保育園関係者・
           教育関係者・保護者・中学生・高校生・大学生・他
5.参加費     500円(学生は無料)         
              ※学生証をご持参ください。
6.主 催     長崎教区教化委員会青少幼年部会  
  共 催     大谷派児童教化連盟・大谷保育協会
7.連絡先     真宗大谷派長崎教務所
             〒850-0052 長崎県長崎市筑後町9-23
               ? 095?825?8831
※ シンポジウム終了後懇親会を予定しております。
  当日受付にて参加者を募ります。 (参加費 実費)
※ 宿泊をご希望の方は長崎教務所までご連絡ください。
  ホテルをご紹介いたします。
※『同朋新聞』9月号に 大河内祥晴 氏の記事が掲載されておりますので
  ご―読いただければ幸甚に存じます。                                                                           以 上
父・祥晴氏から子どもたちヘメッセージ

 (前略)清輝も「旅日記」で「人間が人間のいいなりになるなんて自分がアホらしくなった」といっています。"ぼくを人間としてあつかって"と、いいたかったんだと思います。清輝のことをきっかけに、ぜひ、自分のやっていることや、いっていることをみつめなおしてほしいとおもいます。
 いじめられていることを、ひとにはなすことは、とてもはずかしいし、クラスのひとたちにもぜったいに知られたくないことでしょう。でも、いやなことをする子に、いやなことをする子、いやなことをいう子に、いやなおもいをしている子がいることをおしえてあげてください。たいどや言葉でしめす勇気をもってください。それがつづくようであれば、はやくお父さんやお母さんに相談してください。そうして、よくなった子どもたちがいることも、たくさんのお手紙から、知ることができました。
 いじめの芽は、保育園、小学校のころにあるとおもいます。みんなには、相手のことをわかってあげることや、ひとのくるしみやなやみ、心のいたみをすこしでもわかってほしい。そういう心をみんながもつようになれば、きっと、いじめはなくなっていくのではないかと、おもっています。
(1995年1月22日付け「少年少女新聞より転載』)

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法事は年忌に基づいて私たちに災いがこないようにするため先祖に勤めるものであると考えておられる方は少なくはないと思います。しかし本来的意義からすればそうであるとはいえません。法事は法の事と書き、もう少し字を付け加えると仏法の要の事を聞くとなります。法要も同じ事であります。お釈迦様がお示しになられた仏法を私が聴聞する「聞く」行事が法事なのであります。

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葬儀ってなに?
「葬儀」とは、葬儀に参列された方のひとり一人が、身近な人の死という悲しい出来事をとおして、真実の教えに出遇うことによって、自分自信の在り方を根本的に見つめ直すことです。
 身近な人の死は私たちの心をゆさぶり、今の日常が永遠に続くかのように錯覚して暮らしている私たちに「やがて死んでいく身をどう引き受けて生きていくのか!」と問いかけているのです。
 しかし私たちは「安らかにお眠りください」「ご冥福をお祈りします」というような表現で、亡き人に対して心を配ることが「葬儀」であるのだと思い違いしているのではないでしょう
か。
 大切なことは、亡き人から問われている自分自信の生き死にの問題を念仏の教えに聞き開こうとする心であります。ですから葬儀は宗教儀式として行なわれるのです。
清めの塩は使いません

133_page001.jpg私たちの教団は「靖国神社国家護持法案」に反対し、首相や閣僚が靖国神社に公として参拝することに反対してきました。これは先のアジア太平洋戦争を「聖戦」として政府の政策を積極的に協力してきたこと間違えとし、二度と同じ間違え、二度と戦争を繰り返さないために反対しているのです。その流れの一環として私たち教団が所属する真宗教団連合は本年も靖国神社公式参拝の中止要請をいたし、そして首相が参拝したことに対して抗議いたしました。
私たちの教団が靖国神社に首相・閣僚が公式参拝するを反対していることに対して多くの門信徒の皆様の中から批判されていることも承知しています。このことはもしかすると皆様には宗教の利害関係でいっているようにも聞こえているかも知れませんが、そうではございません。
私は多くの方々が「二度と戦争が起こらないように」という祈りの中でが靖国神社や、護国神社に参拝なさいますことは大切なことだと思っています。  靖国神社は表面的には宗教施設です。しかし内実は宗教を利用した軍事施設だったのです、否なのです。兵士が安心して死んでもらうための、そして安心してこれからも兵士になって死んでいってもらうために国民をマインドコントロールするための施設なのです。二度と戦争が起こりませんように、そして戦争で身内を亡くした悲しみそして厭うという純粋な私たちの心が利用されてきたのです、今も利用ようされようとしているのです。空襲などでなくなった戦没者すべてを祀っているのではなく、兵士として戦争の犠牲になったものだけが祀られていることがその証拠です。 戦争を二度と起こさない、永遠の平和を願うという大切な心は戦争で殺し殺されたすべての人、戦争を体験したすべての人を意識して祈らなくてはならないのです。
念仏を称えてこられた私たちの先輩方はこの世の生を終えた方々を浄土に帰って行かれた人達としていただかれてきました。浄土の人とは仏様としていただかれてきたということです。仏様は私たちに人間の姿をそのまま教えてくださるはたらきです。人間の苦しみ悲しみ、そして悲しまなければならない事実を私たちに教えてくださるはたらきが仏様なのです。
戦争の犠牲になった方を仏と頂くということは人間の悲しい事実として戦争を見ていくことです。そして戦争を繰り返さないことを心に刻むことなのです。戦争で人を殺してきた人も、殺された人も戦争の事実を教えてくださった尊い存在です。人が殺されていくという戦争の事実を覆い隠し、兵士として戦争に関わった人をただ賛美、ほめたたえていくということは仏様としていただくということには決してなりません。
正信偈に「常照我」とあるように仏は私のありのまま、私が住んでいる社会を常に照らしてくだされるはたらきです。そのことが私達人間が生きていく中で本当に尊いことなのです。念仏を先祖より頂いた私達は、我が身・我が社会の事実を教えてくださる全てのはたらきを仏として敬いその御恩に報いていくことが大切なのです。

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