2004年11月アーカイブ

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 「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」この言葉は善導大師の言葉である。お釈迦様の教えである経典は私にとって我が身を映し出す鏡である、このように私は読ませていただいている。
 いうまでもなく経典はお釈迦様のお説教を書きとどめてあるものです。そしてお釈迦様の教え、お釈迦様のお言葉を「教え」としていただいてきてた歴史は、私の姿を映し出す鏡のようなものである。しかし、鏡だけがあれば我が姿が映し出されてくるかといえばそうではない。月夜の光もない真っ暗闇の夜、鏡を使っても私の姿は映し出されてはこない。光に照らされるということがなければならない。光と鏡によってはじめて我が姿が映し出されてくるのである。経典を鏡とたとえるのならば、阿弥陀如来の慈悲を光とたとえるべきなのであろう。
 ところを越え、時を越えて「教え」としていただいてきたお釈迦様が説かれた阿弥陀仏の尊い願い、本願によって明らかにされた我が身とはどんな我が身なのであろうか。宗祖親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と告白なさっておられる。地獄に堕ちて当然の我が身が経典を「教え」としてきた歴史によって、阿弥陀如来の慈悲、呼びかけによって明らかになるのである。
 浄土真宗には御利益がない、とよく言われる。確かに念仏を称えることによって「商売繁盛」「家内安全」「健康祈願」「子孫繁栄」などということがかなうわけではない。自己中心的な、自分勝手な願いは念仏によってかなうはずがない。自分勝手な思い、自己中心的な自分にとって都合のよいことを叶えてもらうことを「御利益」というのであれば浄土真宗には御利益はないといってもよいのであろう。
 しかし仏教の歴史にであうことがなかったら知るはずもない、うなずくことのできなかった「救われがたき身」という我が身の事実を仏教の歴史のよって、念仏を称えることによって知らさせていただいているのではないだろうか。この救われがたき身を知らさせていただいたことを浄土真宗の御利益であると私は思っている。
 我が身の事実を知らし召してくださったことが尊いことであるとうなずけたとき、お釈迦様が尊い仏様として、釈尊の言葉が教えであったことにはじめてうなずくことができるのではないだろうか。
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 二五〇〇年前にお釈迦様が説かれた仏教が今、日本に住む私たちのところにまでやってきており教えとして、信仰として伝わってきている。それは地域を越えて、民族を越えて、そして時代を超えて釈迦様のお話を大切なこととして生き抜かれた人々の歴史が、私のところにまでやってきているということであろう。
 一人の人間がどれだけ立派なことを説いたとしてもそれだけでは宗教にならない。その話が大切なこととしてうなずく人々がいなければ宗教にはならない。お釈迦様がどんなに立派な方であったとしても、お釈迦様のお言葉にうなずく人々がいなければ宗教として成り立たない。
 私たちの住む日本では、数え切れないぐらいの宗教が誕生し、政府に登録されているそうである。しかしその中で五〇年続くもの、一〇〇年続くものはどれだけあるだろうか。時代を超えて伝わる宗教は少ない。叉地域を越えて、民族を越えて伝わる宗教も少ないのである。
 今わたし達のところに仏教の経典が伝わってきている。お釈迦様の教えを尊ぶ人が生まれ、お釈迦様が亡くなられたあとでもその教えが人から人へと伝わる、口伝えで伝わっていく。やがて口伝えされたお釈迦様のお説教が文字に書きとどめられ経典となった。しかしその書物がただわたしのところまで伝わったのであれば昔話であり、古典文学であろう。しかしそうではなく、私たちのところに「教え」として伝わってきているのである。教えとしてこられた人々によって伝わり私のところにまでやってきているのである。
 しかしその歴史に触れながらも私たちは教えとして経典をいただいているだろうか。そのことが気になる。人ごとではなく私のこととして、私に問いかけたい。

 教えとは何だろう。私にとって教えとは何だろう。
 
 
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