
それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。
この文章は私たちはなぜお聖教を読むのかという事が端的に記されているところであります。後世を知るためにお聖教があるのだと蓮如上人は教えてくだされているのです。後世というのは後の世という事で死んだ後の事と理解されてもかまいませんが、もう少し広く、今より後、私の未来すべてと理解した方が現代を生きる私たちにとってはこの言葉のお心がとらえやすくなるのではないかと私は思います。私のこれからを知るためにお釈迦さまのお説教が書留められているお経様をはじめとするお聖教があるのだ、そのことを求めずお聖教を読むのは本当に勿体ない事なのですよと、私たちに蓮如上人は語りかけてくださっているのです。
私たちはこのままのありようで生活していっても安泰なのでしょうか。現在ただ今の自分を知り、また、今までの自分の有り様振り返ると、私の未来は?何とかなるさ、と本当に言い切れるでしょうか。大丈夫ではないとお聖教は常に私たちに語りかけてくださっています。
善導大師というお方は
「読誦大乘」と言うは、これ経敎はこれを喩うるに鏡の如し、数々又読み数々尋ぬれば、智慧を開発す。もし智慧の眼開けぬれば、即ちよく苦を厭いて涅槃等を欣樂することを明す。
と仰っておられます。自分の全部の姿というものは私たちは直接私の目で見る事ができません。私たちは一部しか見ることができてないのです。私の姿を全部見ようとすれば、私の姿を映し出してくれる道具が必要なのです。水面や鏡がそれです。私の形としての姿も一部しか知りようがありませんが、私の人生の相も同じです。一部しか知り得ていません。ただ知ったつもりでいたり、見て見ぬ振りをしているのが私たちではないでしょうか。見えていないところを、見ようとしていないところの自分ををお聖教は指し示してくださっているのです。
私たちが知り得てなかったり、知ろうとしてない自分のすがたとはとういうものなのでしょうか。蓮如上人は良く「後生の一大事」と言う事をよく言われます。またこの御文には「後世」という言葉が何度か出てきます。このままで本当に大丈夫なのか、とお聖教が私たちに問いかけでくださり、その大丈夫ではない証拠を常に指し示してくださっているのです。お念仏を頂いていくしかない身をお聖教は私たちに鏡のように映し出してくださっているのです。
そのことに頷き続けていく、そのことが本当に尊い事であったと気づき続けていくのがお念仏の歩み浄土往生の道なのです。
御文をいただく 其の十帖目第二通①八万の法蔵
法蔵とは仏法の蔵、仏法が納められているものという意味で仏教教典のことを言います。今、現存している仏教教典は八万あるというふうに言われています。正確に八万冊あると言うよりは、満数として、多いという意味で八万という数が用いられているのでしょう。言うまでもありませんが、正直性格に私はいくつあるか仏教教典の数を数えたことはありません。あしからず。
教典とは、お釈迦さまが説かれたお説教が書留められている「経」、そして菩薩という位の方が書かれた「論」、そしてその他の方が書かれた「訳」に細かく分類されることもあります。私たち浄土真宗では、正依、まさしくよりどころとすべき経として、浄土三部経があります。浄土三部経とは、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』を言います。また無量寿経は元もと昔のインドの言葉か書留められていたものを中国の言語に翻訳されるという事業が十二回なされたと言い伝えられていますが、現存して今読むことのできるものは5種類しかありません。その中で私たちは、今から約千八百年前の康僧鎧という方が翻訳されたものをよりどころとしています。
論としては、龍樹菩薩がお書きになられた『十住毘婆沙論』天親菩薩様がお書きになられた『浄土論』が選ばれています。また、親鸞聖人は、『浄土論』の本釈書である『浄土論註』という書物も論として位置づけられている気配も見受けられます。訳としては、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信大師、源空上人などがお書きになられたものを正依の論として選ばれていることでしょう。
仏教をひらかれたお釈迦さまは私たちに教えを伝えるために書物をお書きになられたと言うことはありません。そのとき、その人が理解しやすい言葉でお語りになられています。そのお説きになられたお言葉を直接聞かれた方々が頭で覚えて人に伝えられていましたが、お釈迦さまがお亡くなりになられてしばらくしてから、後の世にしっかりお釈迦様の教えを伝えていこうと言うことになり、お釈迦さまのお説教を聞かれた方々が集まられ、文字で書き残す作業をされました。それが、仏教経典の始まりです。ですから最初の教典は昔のインドの言葉で書かれています。しかし、今私たちが目にする経典は漢字で書かれています。それはインドの言葉で書かれていた経典を忠告の言葉に書き換えられた人がいたからです。自分たちの国の言葉で書き換えて多くの人に仏教に触れてもらいたいという大きな願いがあったからです。その願いの置くにはお釈迦さまのお言葉に触れ尊い教えと頷かれた事実があるからです。
今を生きる私たちは、お釈迦さまというエライ人が語った言葉が経典には書かれているという理解だけではなく、経典に書かれている言葉に触れて、私にとって尊いことが書かれていると頷くことが本当に大事なことなのでしょう。

はなまつり
釈尊降誕会
4月3日(土) 後1時30分より
常入寺にて
主催 老田各宗団
お釈迦さまがこの世に存在され、教えを説きそして仏法を指し示しくだされたことを喜ぶ法要
子ども達よ つどえ!
釈迦さまの誕生会をしましょう
参りくださった子どもさんたちにはおみやげを用意してあります。
釈尊誕生
4月8日はお釈迦様がお生まれになられた日だと伝えられています。今から約2500年前のことです。そのことを縁として各地で「花まつり」が催されます。
言い伝えによればお釈迦様はお生まれになられた時、すぐさま七歩歩かれ、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったそうです。しかし、現代社会の中に生まれ生きている私たちはこういう話を聞くと「生まれてすぐさま歩けるはずはない」「生まれてすぐさましゃべれるはずもない」というように疑ってしまいます。
この言い伝えが本当であるとかないとかと言うことを私たちは論議したりしてしまうのですが、疑う中でも、少なくとも、そのことがなぜ伝えられてきたのかという背景、願いというものはしっかり聞いていかなければいけないことでしょう。七歩歩かれたと言うことには六の次が七であると言うことがあるのだと思われます。六、すなわち六道、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの世界を超えるために仏教の教えがあるのだ、ということが私の耳には聞こえてきます。私たちがあこがれる、天上界、そこに住む神様の生き方までも迷いと押さえ、その迷いの世界を巡ることを超えることが釈尊が説かれた仏教なのです。迷いの世界に執着し、その中であくせくしている私自身の生き方の悲しさに気づきもしないで生きているのが私たちなのです。そういう私たちを何とかしようと願われてるのがお釈迦様です。私たちがお釈迦様と同じ悟りを開く必要はありません。その教えに生きていけばよいことなのです。
我が身の生き様を仏教を聞くことによって明らかにされてきた先輩方は、そのことに気づけたことを喜び、その教えを説かれていたお釈迦様に心から感謝なさってこられました。そういう意味でも、お釈迦様がこの世に存在されたこと、お生まれになられたことを喜んでこられたことなのでしょう。生まれてくれてありがとう、と。
あらゆる人たちの誕生日も「生まれてくれてありがとう」と感謝することが大切なのでしょう。「おめでとう」という言葉の意味を尋ねていきましょう。

自殺について考えてみませんか?
謹啓 余寒なお厳しき折自殺について考えてみませんか?
、皆様方には益々ご清祥のことと拝察いたします。
解放運動推進小委員会では、本年5月25日・26日の両日に亘り、第33回北陸連区差別問題研修会を開催いたします。
その一環として、解放運動推進研修会として、高橋祥友氏、梶原敬一氏をお招きし、お話をいただきました。
今回、北陸連区差別問題研修会のパネリストである、尾角光美さんをお招きし、第3回解放運動推進研修会を開催いたします。
尾角さんは、"生と死で「いのち」であり、死を見つめることで
生の実感が深まる。闇があっての光のように。""亡くなった人との関係は、死後も豊かに深まり得るもので、消えてなくなるものでは、ない、と思っています。"とホームページの中で語っておられます。
活動のきっかけや内容、願いや思いについてお話をいただきます。
つきましては、下記のとおり開催いたしますので、是非お誘いあわせてご参加いただきたく、案内申し上げます。 合掌
尾角光美さんからのメッセージとプロフィール
自死(自殺)について考えることは、私たちが「生きる」について考えることです。今、自分の「生き心地」はどんなものでしょうか。もし大切な人に「死にたい」と言われたら、どうしますか。自分自信が「生きる」こと、そして、大切な人と共に生きていくことを、一緒に考え、想う時間になればと願っています。
尾角光美(おかくてるみ) Live on代表・自死遺児
死別を経験した人や遺児のケア(グリーフケア)、総合的なグリーフサポートを行う団体「Live on(リヴオン)」代表。グリーフを通じて、ひとりひとりが「ままに」を大切に生きられるような社会づくりをめざしている。2003年大学入学二週間前に母を自死(自殺)で亡くす。あしなが育英会を通じて遺児のケア・サポート活動に携わる。2006年から全国で自殺やいのちをテーマに講演をはじめる。2008年第五回京都学生人間力大賞で「京都市長賞」受賞。2009年4月『102年目の母の日』(長崎出版)を編著。同年9月から全国の自死遺児のケア・サポートをスタートさせた。
記
1 名 称 第3回解放運動推進研修会
2 日 時 2010年3月11日(木)午後2時から午後4時まで
3 会 場 高岡教務所
4 講 師 尾角 光美 氏(live on代表))
5 テーマ 「世をいとうしるし」
6 聴講料 1,000円
※ この研修会は、大谷派教師陞補(一種)対象の研修会でもあります。
御文をいただく 其の九 五帖目第一通⑨
《試訳》
仏教を開かれたお釈迦さまが亡くなられて遙かなる時間が経ち、直接お説教を聞くことが出来ない今を生きている私たちは、こころをひとつにして阿弥陀仏に浄土往生を深くたのみ、更にはあれやこれやとさまざまな神仏に頼まず、こころをひとつにしてこころより阿弥陀仏に助けを請えば、たとえどんな罪深い生き方をしてこようが、必ず阿弥陀如来はお救いくださるのです。
これは、阿弥陀仏が佛となられるときに誓われた時のお心です。だから、このように自分のこれからの人生で頼るべき事がはっきりしたならば、意識して、また夢の中でもいのち尽きるまでお念仏をもうなさければならないものなのです。
あなたに敬いを込めて。
今年もナムナム大集会の案内を頂きました。
気持ちとしては生きたいんだけど、今年はあまり県外に出かけないと誓ったので・行くの止めます。
ナムナム大集会
非の思想
わがはからいにて行ずるにはあらず
親鸞は流罪以降、自分の位置を非僧非俗と名づける。
非僧とは、いわば国家から今拒否されたということであり、
非俗とは、その国家を
逆に拒否し返したといっていいのではないだろうか。
歎異抄には、「念仏は行者のために、非行非善なり」とある。
念仏がそれをする人にとって非行非善であるとは、
念仏は、徹底してこの世とは迎合しないものであることを
示しているのではないだろうか。
親鸞が大事にした「非」という言葉を、
身をもって表現してくださっているゲストを迎えての集会です。
流罪八〇三年の今、「非」について共に考えてみませんか。
【開催日時・会場】
2010年3月9日(火)
会場=午後12時30分
(会場前に東本願寺御影堂にておつとめがあります)
開演=午後1時
会場=大谷婦人会館(大谷ホール)
住所 京都市上京区花屋町通烏丸西入る上柳町215
電話 075-371-6181
参加費=1,000円(学生=500円)
【プログラム】
午後12時~
◆東本願寺御影堂にてお勤め
午後1時~
◆開会あいさつ
午後1時15分~
◆第1部 マリンバ演奏
ンコシさんとその仲間
午後2時15分~
◆第2部 講演Ⅰ 緒方正人さん
講演Ⅱ 河野義行さん
午後3時45分~
◆第3部 シンポジウム
午後5時 閉会
主催 ナムナム大集会実行委員会









