2017年7月27日

286 御文をいただく 其の四四 五帖目第五通④

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御文をいただく 其の四四五帖目第五通④

 浄土真宗で信心と言われてきたことは、それは阿弥陀仏が本願を建てられ仏となられたお心を知ることであると言うことがまず説かれているわけです。そして次に、その信心をとるということは南無阿弥陀仏の姿を心得ることであると蓮如上人は説いてくださっています。でもなか意味がわからないかも知れません。南無阿弥陀仏は言葉であるにも関わらずすがたとありますから......。
 南無阿弥陀仏について私の先生は以前「音声佛(おんじょうぶつ)」なのだと教えてくださったことがあります。これもわかりにくい表現かも知れませんが、声となって現れてくださった仏様という意味であると私はいただいています。私が今聞いている南無阿弥陀仏という声は阿弥陀仏が私たちを救おうと思ってわざわざ声となって私たちの前に現れてくださっているのだと言うことなのでしょう。そういう意味で言うと南無阿弥陀仏の声に仏を感じると言うことがすがたを心得ると言うことだと言ってもよいのかも知れません。南無阿弥陀仏が仏であると言われてきたことに、そういうことなのかと頷く歩みが南無阿弥陀仏のすがたをこころうるというふうにしかいしていいのかもしれません。

2017年7月 1日

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2017年6月10日

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2017年6月 1日

283 御文をいただく 其の四四 五帖目第五通④

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御文をいただく 其の四四五帖目第五通④信心をいただくということ

「信心獲得するというは第十八の願をこころうるなり」この言葉をいただきますとき、私たちの思っている信心や信ということと親鸞聖人や蓮如上人が思っておられる信心ということは違うんだということに気づかせていただきます。
 私たちが信心といわれてイメージすることは目もくれず他のことが目にはいらなくなったり、受け付けなくなるくらいいわゆる盲信的なものを浮かべる方がほとんどではないでしょうか。テレビを見ていてニュースの中に出てくる宗教の話は何もわからなくなり何千万もする壺を買ったり寄付をしてしまうというものがほとんどですから。
 しかし、しかし、蓮如上人が書かれたこのお手紙の中には、信心を得るということは阿弥陀如来が誓われた第十八番目の誓いの思いを心得ることであるといわれています。言い換えればそれは阿弥陀如来がなぜ念仏成仏の救いの道をご用意くだされたのか、私たちをなぜわざわざお救いくださるのかというゆえん、すなわち訳を心得ること、納得することが信心をいただくということなのだと明確に示してくだされています。
 阿弥陀如来が大悲を起こされ私たちを易く救おうとされた訳を知るには阿弥陀仏だけに目を向けていてはなかなかわからないことでしょう。本願だけをどれだけ見つめていてもわからないことでしょう。如来が救おうとなさっている対象者すなわち我々人間のありよう、もっといえば私の生き方もあきらかにしていき救われなければならない私ということを明確にしていく必要があるのではないでしょうか。
 阿弥陀仏の大いなる願い・悲しみと救っていただかないといけない私のありようを訪ねていくことによって信心がいただけることなのでしょう。またそういうふうに歩んでいくことが浄土往生の道を歩むということなのでしょう。

当たり前って当たり前?

 先日NHKを見ていましたら発達障害についての特集をしていました。いろいろといろいろと発達障害についての研究が進んで少し原因がわかってきているみたいでした。いろんなのもの音が気になる、光をまぶしく感じるなど感覚過敏によりいわゆる「発達障害」起こっていることもあると番組で言っていました。また大人になっても発達障害と診断される人がいるということも初めて知りました。
 この番組の中で一番印象に残っているのは当たり前当たり前と私たちが思っていることを人に押しつけることによってその当たり前という常識によって苦しんでいる人が居るということでした。自分ができて当たり前と思っていることも隣にいる人はそのことができることが当たり前でなかったりするんですよね。
 人は誰一人同じ存在ではありません。考え方もみんな違います。また能力も才能もそれぞれ違います。そういうことを個性というのでしょう。人間の成長というのも同じことなのでしょう。身体的な成長のスピードが人それぞれであるのと同じで心の成長も同じということはないのでしょう。子どもだけではなく大人であっても。
 いつのまにか私たちは多くの人ができることや思っていることを常識や当たり前になってきます。でもこれは多くの人の常識であってみんなの当たり前では決してありません。しかしついつい常識はみんな同じものを同じものをもっていると誤解していってしまうのです、私たちは。その漠然とした「常識」から外れた人が常識に苦しんだり、常識に近づこうとして苦しんだりするのです。
 私たちは当たり前って当たり前?とか私の常識はあの人の常識ではないとかいうことを頭のどこかにおいておくことで生きやすくなられる方があるのでしょう。

2017年5月 1日

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老田仏教会主催はなまつり開催される

 去る4月1日常入寺において老田仏教会主催のはなまつり(お釈迦さまがこの世にお生まれいただいたことをことを喜ぶ仏事)が開催されました。
 老田仏教会とはた老田地区7ヶ寺から構成されており、4月第1土曜日にはなまつりを開催しています。本年は常入寺が7年に一度の当番がまわってきて常入寺にて開催されました。
 はなまつりには老田保育所の年長組の皆さんが来ていただき、仏様にお花をお飾りしてして「はなまつり」を大きな声で歌ってくださいました。その後な僧侶の読経に続き灌仏、すなわち参加した皆さんがお釈迦様がお生まれになられたとき甘露の雨が降ったことにちなみ誕生仏に甘茶を、おかけしました。珍しくお寺にことも達がお参りくださりとても賑やかなひとときとなりました。
 来年は中老田の乗福寺様でつとまります。また次東老田で開催されるのは再来年本浄寺さまで、7年後常入寺となります。是非ともお参りください。おねがいします。

2017年4月 1日

281 御文をいただく 其の四三 五帖目第五通③

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御文をいただく 其の四三 五帖目第五通③

第十八の願
 私たちの本尊である阿弥陀如来が仏となるとき誓われた誓いを本願といいます。そしてその本願は私たちがよりどころにしている御経には四十八通りの誓いが誓われています。その中で一番大事、中心となる本願は初めから数えて十八番目の願です。「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く」というように誓われています。本当に我が国、お浄土に生まれたいと思っているものを私、阿弥陀の力によってすくい取ります、このような願いです。
 このような第十八願をなぜ阿弥陀仏は仏に阿弥陀仏は仏になろうとされたとき誓われたのかということを訪ねて行くことが私たち念仏を称える者にとって本当に大事なことなのでしょう。またこのことを訪ねるとき「私」というものを抜きにしてはならないことでしょう。私を阿弥陀仏がなぜ救おうとして本願を立てられ念仏を響き念仏を響きわたらしてくださっているのか考えることが肝要なことなのです。
 またそういうことを訪ねていくことを私たちの先輩方は「信心」とおっしゃってこられたわけです。

2017年3月 1日

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井波別院巡回法座が勤まりました
 二月八日井波別院法宝物御巡回が常入寺にて本願寺第五代綽如上人のご影をお迎えして開かれました。
 案内をお配りするのが遅くなってしまったせいか例年より少しお参りにお越しくださった方が少なかったということは少し残念でした。次回の城端別院の巡回、来年の両別院の巡回にはもう少しお参りいただけるよう工夫をしていかないといけないと感じさせていただきました。
 今回は布教使として遅くなってしまったせいか高岡市の藤井乗さんさんがお越しくださいました。

2017年2月 1日

279 御文をいただく 其の四二 五帖目第五通②

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信心

 蓮如上人は私のイメージに過ぎないのですが、御文の中で信心ということをよく言われているような気がします。それは一つには南無阿弥陀仏という一声さえ出したくても出せない人は救われるのかという問いの中で声に出すより唱えたいという心が大事だとある意味門戸を広げられたということがあると思います。そしてもう一つ、ただ念仏申す生活の歩みの中で多くの人がどういう心持ちで念仏申せばよいのかという四禅に起きてくる自然に起きてくる問いへの応えとして書かれているということもあるのではないかと最近思うわけです。
 浄土真宗は迷いなく念仏申してお浄土に生まれることをすすめる教えです。ですから念仏を称えるという行為を何よりも大切西ないといけません。しかしただ念仏申し生活をしていこうとすればするほど「これでいいのだろうか」「本当に念仏申しだけでよいのであろうか」「どのような心持ちで念仏申せばよいのだろうか」というような疑問が湧いてくる方がお買ったのではないでしょうか。そういう疑問が湧いてきている方々に対し蓮如上人は信心・安心と言う言葉でもってお答えになって行かれたのではないだろうかと最近思うのです。
 そういう意味で蓮如上人は信心ということは念仏申し続けることのできる心という意味で使われておられるといってもうよいのではないでしょうか。

2016年12月31日

278 御文をいただく 其の四一 五帖目第新五通①

 御文をいただく 其の四一 五帖目第新五通①信心という課題
 長い間お寺にお越しいただいて聴聞いただいているお方であったならば「信心」という言葉を何度か聞かれたことがあるのではないでしょうか。それぐらいよく使われる言葉でありますし、また大切な言葉でもあります。信心ということは念仏を称えることによって阿弥陀如来がすくってくだされるということを信じるとだと理解くださっても差し支えないことでとでしょう。このことがなぜお説教でよく言われるかといえば容易なことではないからでしょう。
 南無阿弥陀仏を称えることによって私たちが救われていくと思いながら念仏をとなることはそんなに簡単なことではないのではないでしょうか。皆さんはいかがでしょうか。どちらかといえば称えれば称えるほど疑いの心が湧いてくるものではないでしょうか。そういう疑いの気持ちとどのように向き合っていくべきなのかということが浄土真宗の歴史の中でずっと課題にされてきたことなのでしょう。そのことを訪ねるためにも皆様方もご一緒に念仏の生活をしながらお説教を聞くご縁をいただいていきましょう。

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2016年12月 1日

277 御文をいただく 其の四十 五帖目第三通⑧ 試訳

五帖目第三通試訳
家庭を営みながら仏道を歩もうとする者は、迷いなく阿弥陀の願いを信じ、この迷いの身をなんとかたすかりたいと思っているをみんなたすけてくださるのだといただき、阿弥陀仏の私たちを救おうとなさっている願いを疑ってはいけませんこの救いをことを阿弥陀仏の誓い、他力の本願というのです。ですから我が身が私がすでに出合っている念仏を称える生活をすることによってたすかっていくことが本当に有り難いことだと思うのならば南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を称える生活をしていくしか私たちにはないですよね。あなたを敬い申し上げます。あなかしこ

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