天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還回向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化
<試訳>
天親菩薩がお造りになられた『浄土論』を注釈され、私たちが阿弥陀の報土に生まれることができるわけが本願にあることを明らかにされました。浄土にゆくすがた、浄土から帰ってくるすがたが我々に成就できるのは他力本願によるものだ。それゆえ、我々がまさしく浄土往生が定まるのはただ如来より賜った信心に由るのだ、と述べられています。
惑いに染め抜かれている凡夫より信心が起こったならば、生死の迷いより涅槃が起こるという大乗仏教の真髄を頂けることだ。必ず、無量光明土なる浄土に至ることができ、そして、普く衆生をみんな化導することができると、仰っておられます。
①【注/註】「言」+音符「主」、「主」は灯火の炎を象り、じっと一箇所に止まっていることを意味。「言葉」を留め解説する。
本文中の語句や事項などについて、補足したり詳しく説明したりすること。また、その説明。
廻向に二種の相有り。一には往相、二には還相なり。往相は、己れが功德を以て一切衆生に廻施して、作願して共に彼の阿彌陀如來の安樂淨土に往生せしめむとなり。還相は、彼の土に生じを已りて、奢摩他毗婆舍那方便力成就することを得て、生死の稠林に廻入して、一切衆生を敎化して、共に佛道に向かへしめるなり。若しは往若しは還、皆衆生を拔て生死海を渡せんが為なり(『浄土論註』真聖全316)
「淤泥花」といふは、『經』(維摩經卷中)に、「高原の陸地には蓮花を生ぜず卑濕の淤泥に乃ち蓮花を生ず」と言へり。此は凡夫、煩惱の埿の中に在て菩薩の爲に開導せられて能く佛の正覺の花を生ずるに喩ふ。諒に夫れ三寶を紹隆して常に絶えざらしむと。(『浄土論註』真聖全335)
「十方无碍人の一道より生死を出」といへり。一道は一无碍道なり、无碍は、謂く生死即是涅槃と知るなり。是の如き等の入不二の法門は无碍の相なり。()『浄土論註』真聖全346)
『無量清浄平等覚経』に言わく、速疾に超えて、すなわち安楽国の世界に到るべし(真仏土巻 聖典301)
はちなん 【八難】
- (1)〔仏〕 仏を見、正法を聞くことを妨げる八種の苦難・境界。すなわち、地獄・畜生・餓鬼・長寿天・盲聾
唖(もうろういんあ)・辺地・世智弁聡(せちべんそう)・仏前仏後の称。
回向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
回向(廻向、えこう、pariNaama、परिणाम 〈sanskrit〉)、「パリナーマ」とは「転回する」「変化する」「進む」などの意、その漢訳である「回向」は、「回」は回転(えてん)、「向」は趣向(しゅこう)の意で、大乗仏教の特徴をなす考え方である。
概要 [編集]
自分の修めた善行の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足することをいう。善行の報いは本来自分に還るはずだが、大乗仏教においては一切皆空であるから、報いを他に転回することが可能となる。善行の結果を人々のためになるよう期待し、それを果すのを「衆生回向」といい、善行の結果を仏果の完成に期待するならば、それを果すことは仏道への回向である。いわば、自分自身の積み重ねた善根功徳を相手にふりむけて与えることを回向という。
- 寺院や僧侶に読経をたのむときに、「廻向料」などと表書きするのは、この理由による。
回向の心をもって修行する段階を十に分け「十回向位」とし、悟りへの重要な修行過程とする。自己の善根を仏果に向け、自我への執着を除去しようとする。「善根」は常に自ら以外の方向に振り向けられて「功徳」となり、我執が除去される。ここに回向の必然性がある。善根が積み重ねられて仏となるのではなく、すべての善根は回向されることに意味がある。
回向には、一般に(1)菩提回向 (2)衆生回向 (3)実際回向の三種を説く。それぞれ菩提を趣向し、衆生に功徳を回施し、無為涅槃の趣求にふりむけるとする。
世親(天親)は、「礼拝、讃歎、観察、作願、回向」と五念門を説き、往生浄土のための行の中、自ら修めた諸功徳をすべての衆生に回向して、ともに浄土に往生して仏となることを重要な項目としてあげている。
往還回向 [編集]
曇鸞は、『浄土論註』巻下において、「往相(おうそう)」、「還相(げんそう)」の二種の回向があると説いた。
- 「往相回向」とは、「往生浄土の相状」の略で、自分の善行功徳を他のものにめぐらして、他のものの功徳として、ともに浄土に往生しようとの願いをもととして説かれる。
- 「還相回向」とは「還来穢国の相状」の略で、浄土へ往生したものを、再びこの世で衆生を救うために還り来たらしめようとの願いを言う。この利他のはたらきも、阿弥陀仏の本願力の回向による。
浄土真宗においては、親鸞の「末法の衆生は、回向すべき善行を完遂(かんすい)しえない。」という自己反省によって、法を仰ぎ、法の力を受け取ろうとする。
浄土への往生(往相)も、阿弥陀仏の本願力によるのであって、阿弥陀仏がたてて完成した万徳具備の名号のはたらきによるとして、名号を回向されるという。
よって往相・還相ともに阿弥陀仏の本願力として、仏の側から衆生に功徳が回向されるものとする。これを「他力回向」という。
具体的には、江戸時代讃岐の庄松という妙好人が「私が捨てた念仏を喜んで拾う者がいる」と言うように、称名の声を聞いた時に、浄土からこの我々に働きかけているすがたと感じて、それに応えて称名をする姿を言う。
煩悩(ぼんのう、kleza、क्लेश (sanskrit))とは仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働きを言う。
原始仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、解脱による涅槃への道が求められた。部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。
大乗仏教の時代でもこの分析は続けられ、特に唯識が示した心と煩悩の精緻な探求は仏教が到達した一つの究極点といえよう。またこの時代には、煩悩を否定しないというそれまでの仏教には無かった発想も生じてきた(如来蔵)。この両者の思想はその後の大乗仏教に深く影響を与えた。
三毒(さんどく)とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである。
- 貪(とん):貪欲(とんよく)ともいう。むさぼり(必要以上に)求める心。
和文では「欲」・「おしい」・「むさぼり」と表現する。
原始仏教においては、煩悩を滅することに主題がおかれ、それにより悟りが得られるとされていた。
しかし、時代を経て大乗仏教の概念が発展すると、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅することは不可能と考えられるようになった。また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれると考えられるようになった。
したがって、煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する。これを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。
生死即涅槃
大乗仏教における空の観念から派生した概念である。生死即涅槃の即とはイコールと捉えられやすいが微妙にやや異なる。この場合の「即」とは、和融・不離・不二を意味する。
迷界(迷いの世界)にいる衆生から見ると、生死(生死=迷い)と涅槃には隔たりがある。しかしそれは煩悩に執着(しゅうじゃく)して迷っているからそのように思うだけで、悟界(覚りの世界)にいる仏の智慧の眼から見れば、この色(しき、物質世界)は不生不滅であり不増不減である。したがって、いまだ煩悩の海に泳いでいる衆生の生死そのものが別に厭うべきものではなく、また反対に涅槃を求める必要もない。
言いかえれば、生死を離れて涅槃はなく、涅槃を離れて生死もない。つまり煩悩即菩提と同じく、生死も涅槃もどちらも差別の相がなく、どちらも相即(あいそく)して対として成り立っている。したがってこれを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。
