2010年4月10日

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願


天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還回向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化

<試訳>

天親菩薩がお造りになられた『浄土論』を注釈され、私たちが阿弥陀の報土に生まれることができるわけが本願にあることを明らかにされました。浄土にゆくすがた、浄土から帰ってくるすがたが我々に成就できるのは他力本願によるものだ。それゆえ、我々がまさしく浄土往生が定まるのはただ如来より賜った信心に由るのだ、と述べられています。

惑いに染め抜かれている凡夫より信心が起こったならば、生死の迷いより涅槃が起こるという大乗仏教の真髄を頂けることだ。必ず、無量光明土なる浄土に至ることができ、そして、普く衆生をみんな化導することができると、仰っておられます。

①【注/註】「言」+音符「主」、「主」は灯火の炎を象り、じっと一箇所に止まっていることを意味。「言葉」を留め解説する。

本文中の語句や事項などについて、補足したり詳しく説明したりすること。また、その説明。

廻向に二種の相有り。一には往相、二には還相なり。往相は、己れが功德を以て一切衆生に廻施して、作願して共に彼の阿彌陀如來の安樂淨土に往生せしめむとなり。還相は、彼の土に生じを已りて、奢摩他毗婆舍那方便力成就することを得て、生死の稠林に廻入して、一切衆生を敎化して、共に佛道に向かへしめるなり。若しは往若しは還、皆衆生を拔て生死海を渡せんが為なり(『浄土論註』真聖全316)

「淤泥花」といふは、『經』(維摩經卷中)に、「高原の陸地には蓮花を生ぜず卑濕の淤泥に乃ち蓮花を生ず」と言へり。此は凡夫、煩惱の埿の中に在て菩薩の爲に開導せられて能く佛の正覺の花を生ずるに喩ふ。諒に夫れ三寶を紹隆して常に絶えざらしむと。(『浄土論註』真聖全335)

「十方无碍人の一道より生死を出」といへり。一道は一无碍道なり、无碍は、謂く生死即是涅槃と知るなり。是の如き等の入不二の法門は无碍の相なり。()『浄土論註』真聖全346)

『無量清浄平等覚経』に言わく、速疾に超えて、すなわち安楽国の世界に到るべし(真仏土巻 聖典301)

奢摩他(しゃまた)...乱した心を離れ、思いを止めて心が寂静になった状態(止観)
毗婆舍那(びばしゃな)...智慧

煩悩(ぼんのう、kleza、क्लेश (sanskrit))とは仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げるの働きを言う。

原始仏教では、人のの原因を自らの煩悩ととらえ、解脱による涅槃への道が求められた。部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。

大乗仏教の時代でもこの分析は続けられ、特に唯識が示した心と煩悩の精緻な探求は仏教が到達した一つの究極点といえよう。またこの時代には、煩悩を否定しないというそれまでの仏教には無かった発想も生じてきた(如来蔵)。この両者の思想はその後の大乗仏教に深く影響を与えた。

三毒(さんどく)とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである。

  • (とん):貪欲(とんよく)ともいう。むさぼり(必要以上に)求める心。

和文では「欲」・「おしい」・「むさぼり」と表現する。

  • (しん):瞋恚(しんに)ともいう。怒りの心。「いかり」・「にくい」と表現する。
  • (痴・ち):愚癡(ぐち)ともいう。真理に対する無知の心。「おろか」と表現する。

菩提(ぼだい)とは、サンスクリット語でボーディ(bodhi)の音写である。 内容的には、悟りの果としての智慧のことである。この智慧は無上の悟りなので、大乗仏教では特に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)という。また、悟りを開いた仏の境地を表すことから、涅槃と同義と考えられた。しかし時代が下り、密教の経典である『大毘盧遮那成仏神変加持経』では「菩提とは実の如く自心を知ること」と説き、その意味が大きく変わっている。 菩提の対義語は煩悩である。大乗仏教、とくに密教においては「煩悩即菩提」といい、煩悩(迷い)と菩提(悟り)は「而二不二(ににふに)」といって、二つであってしかも二つではないと説く
煩悩即菩提

原始仏教においては、煩悩を滅することに主題がおかれ、それにより悟りが得られるとされていた。

しかし、時代を経て大乗仏教の概念が発展すると、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅することは不可能と考えられるようになった。また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれると考えられるようになった。

したがって、煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する。これを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。

生死即涅槃

大乗仏教におけるの観念から派生した概念である。生死即涅槃のとはイコールと捉えられやすいが微妙にやや異なる。この場合の「即」とは、和融・不離・不二を意味する。

迷界(迷いの世界)にいる衆生から見ると、生死生死=迷い)と涅槃には隔たりがある。しかしそれは煩悩執着(しゅうじゃく)して迷っているからそのように思うだけで、悟界(覚りの世界)にいる智慧の眼から見れば、この(しき、物質世界)は不生不滅であり不増不減である。したがって、いまだ煩悩の海に泳いでいる衆生の生死そのものが別に厭うべきものではなく、また反対に涅槃を求める必要もない。

言いかえれば、生死を離れて涅槃はなく、涅槃を離れて生死もない。つまり煩悩即菩提と同じく、生死も涅槃もどちらも差別の相がなく、どちらも相即(あいそく)して対として成り立っている。したがってこれを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。