2010年4月10日

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願


天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還回向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化

<試訳>

天親菩薩がお造りになられた『浄土論』を注釈され、私たちが阿弥陀の報土に生まれることができるわけが本願にあることを明らかにされました。浄土にゆくすがた、浄土から帰ってくるすがたが我々に成就できるのは他力本願によるものだ。それゆえ、我々がまさしく浄土往生が定まるのはただ如来より賜った信心に由るのだ、と述べられています。

惑いに染め抜かれている凡夫より信心が起こったならば、生死の迷いより涅槃が起こるという大乗仏教の真髄を頂けることだ。必ず、無量光明土なる浄土に至ることができ、そして、普く衆生をみんな化導することができると、仰っておられます。

①【注/註】「言」+音符「主」、「主」は灯火の炎を象り、じっと一箇所に止まっていることを意味。「言葉」を留め解説する。

本文中の語句や事項などについて、補足したり詳しく説明したりすること。また、その説明。

廻向に二種の相有り。一には往相、二には還相なり。往相は、己れが功德を以て一切衆生に廻施して、作願して共に彼の阿彌陀如來の安樂淨土に往生せしめむとなり。還相は、彼の土に生じを已りて、奢摩他毗婆舍那方便力成就することを得て、生死の稠林に廻入して、一切衆生を敎化して、共に佛道に向かへしめるなり。若しは往若しは還、皆衆生を拔て生死海を渡せんが為なり(『浄土論註』真聖全316)

「淤泥花」といふは、『經』(維摩經卷中)に、「高原の陸地には蓮花を生ぜず卑濕の淤泥に乃ち蓮花を生ず」と言へり。此は凡夫、煩惱の埿の中に在て菩薩の爲に開導せられて能く佛の正覺の花を生ずるに喩ふ。諒に夫れ三寶を紹隆して常に絶えざらしむと。(『浄土論註』真聖全335)

「十方无碍人の一道より生死を出」といへり。一道は一无碍道なり、无碍は、謂く生死即是涅槃と知るなり。是の如き等の入不二の法門は无碍の相なり。()『浄土論註』真聖全346)

『無量清浄平等覚経』に言わく、速疾に超えて、すなわち安楽国の世界に到るべし(真仏土巻 聖典301)

奢摩他(しゃまた)...乱した心を離れ、思いを止めて心が寂静になった状態(止観)
毗婆舍那(びばしゃな)...智慧

煩悩(ぼんのう、kleza、क्लेश (sanskrit))とは仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げるの働きを言う。

原始仏教では、人のの原因を自らの煩悩ととらえ、解脱による涅槃への道が求められた。部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。

大乗仏教の時代でもこの分析は続けられ、特に唯識が示した心と煩悩の精緻な探求は仏教が到達した一つの究極点といえよう。またこの時代には、煩悩を否定しないというそれまでの仏教には無かった発想も生じてきた(如来蔵)。この両者の思想はその後の大乗仏教に深く影響を与えた。

三毒(さんどく)とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである。

  • (とん):貪欲(とんよく)ともいう。むさぼり(必要以上に)求める心。

和文では「欲」・「おしい」・「むさぼり」と表現する。

  • (しん):瞋恚(しんに)ともいう。怒りの心。「いかり」・「にくい」と表現する。
  • (痴・ち):愚癡(ぐち)ともいう。真理に対する無知の心。「おろか」と表現する。

菩提(ぼだい)とは、サンスクリット語でボーディ(bodhi)の音写である。 内容的には、悟りの果としての智慧のことである。この智慧は無上の悟りなので、大乗仏教では特に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)という。また、悟りを開いた仏の境地を表すことから、涅槃と同義と考えられた。しかし時代が下り、密教の経典である『大毘盧遮那成仏神変加持経』では「菩提とは実の如く自心を知ること」と説き、その意味が大きく変わっている。 菩提の対義語は煩悩である。大乗仏教、とくに密教においては「煩悩即菩提」といい、煩悩(迷い)と菩提(悟り)は「而二不二(ににふに)」といって、二つであってしかも二つではないと説く
煩悩即菩提

原始仏教においては、煩悩を滅することに主題がおかれ、それにより悟りが得られるとされていた。

しかし、時代を経て大乗仏教の概念が発展すると、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅することは不可能と考えられるようになった。また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれると考えられるようになった。

したがって、煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する。これを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。

生死即涅槃

大乗仏教におけるの観念から派生した概念である。生死即涅槃のとはイコールと捉えられやすいが微妙にやや異なる。この場合の「即」とは、和融・不離・不二を意味する。

迷界(迷いの世界)にいる衆生から見ると、生死生死=迷い)と涅槃には隔たりがある。しかしそれは煩悩執着(しゅうじゃく)して迷っているからそのように思うだけで、悟界(覚りの世界)にいる智慧の眼から見れば、この(しき、物質世界)は不生不滅であり不増不減である。したがって、いまだ煩悩の海に泳いでいる衆生の生死そのものが別に厭うべきものではなく、また反対に涅槃を求める必要もない。

言いかえれば、生死を離れて涅槃はなく、涅槃を離れて生死もない。つまり煩悩即菩提と同じく、生死も涅槃もどちらも差別の相がなく、どちらも相即(あいそく)して対として成り立っている。したがってこれを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。

2009年10月10日

本師曇鸞梁天子

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦

<試訳>

曇鸞大師は梁の王に菩薩と頂かれ常に向き礼拝された

菩提流支に『観経』を授けられてすぐさま仙経を焼き阿弥陀仏に帰依された。

(このように、曇鸞の)自分の行と他人への教化は流れ流れて弘まった。魏主(ぎのこうてい)は彼をたっとんで神鸞といった。勅を下して幷州大寺(ビョウシュウダイッジ?)に住まわせた。(『続高僧伝巻六』大乗仏教中国日本編14高僧伝:中央公論社刊71)

名山に往き、(仙)方をたよりに(仙術を)おさめようとした。落下(らくよう)にあるいてゆき、中国三蔵の菩提流支に逢った。曇鸞は往って申し上げていった、「仏法の中でもし長生不死の法で此土(ちゅうごく)の仙経よりも勝れているものが有るでしょうか」と。流支は大地に唾(つばき)していった。それは何という言葉なのか。あい比べるどころのものではない。此方(このよ)の何処に長生の法があるのか。たとい長生(ながいき)できても少時(しばらく)死なないだけだ。結局こもごも三有(さんがい:欲界色界無色界)に輪廻するだけだ」と。すぐに『観経』を授けていった、『これは偉大な仙方である。これによって修行したならば、きっと生死を解脱することが出来よう」と。曇鸞はついで頂礼をして受けた。持ってきた仙方はみな火で焼いた。(『続高僧伝巻六』大乗仏教中国日本編14高僧伝:中央公論社刊71)

魏の主勅して并州の
大巌寺にぞおわしける
ようやくおわりにのぞみては
汾州にうつりたまいにき

魏の天子はとうとみて
神鸞とこそ号せしか
おわせしところのその名をば
鸞公厳とぞなづけたる

本師曇鸞和尚は
菩提流支のおしえにて
仙経ながくやきすてて
浄土にふかく帰せしめき

:(りょう、502年 - 557年)は中国の南北朝時代に江南に存在した王朝 天子:祖武帝をさす、蕭衍(しょうえん)は南朝梁の初代皇帝、皇帝菩薩」とも称された。熱烈な仏教徒だった。 :曇鸞をさす 三蔵流支:菩提流支をさす。北インド出身の僧。サンスクリットのbodhiruci、बॊधिरुचि (skt.) の音写、「菩提留支」とも音写する。北魏の都、洛陽で訳経に従事。大乗の経論を30部余り翻訳する。また漢訳して「道希」とも呼ばれる。無量寿経如来会、『浄土論』を訳す 淨教:浄土の教え、観無量寿経共『浄土論』を授けたと言われている。 焚焼(ぼんしょう):もやすこと。たくやく 仙経:仙人が伝える経典、当寺盛んだった同教の経典、長生きの法 楽邦:極楽邦国、すなわち阿弥陀仏の浄土
神鸞と親鸞  
魏の天子はとうとみて神鸞とこそ号せしか
おわせしところのその名をば
鸞公厳とぞなづけたる
 竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、  太上天皇 諱尊成、今上 諱為仁 聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。  主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。
 これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。  皇帝 諱守成 聖代、建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛して已後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。奇瑞称計すべからず。『別伝』に見えたり。(教行信証後序 聖典398)
曇鸞大師476~542
出家後四論(中論・十二門論・大智度論・百論)と仏性の研鑽に従事したと言われる。その後大集経の注釈を志すが、途中病で倒れる。
しばらくして、長寿を説く仙経を求めて当寺道教の大家、陶弘景(とうこうけい)を訪ねた。仙経十巻を授かり、気と、落陽において菩提流支と出会う。彼に長生術を誇るが、それは迷いの境界における上寿に過ぎないので結局迷界の流転を免れないと教示を受けて、観無量寿経(1sつに半城土論)を授かった。


2009年9月12日

帰入功徳大宝海

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死園示応化

<試訳>

かくして大いなる海のように功徳が充ち満ちている念仏を頂けば自ずから阿弥陀仏が今なされている説法を聞くことができ、やがて浄土の世界ににいたり、ただちに佛の証りを得るものとなり、煩悩に満ちた迷いの世界もどり仏のはたらきを思いのままあらし、浄土へ導いていくのである

仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、
能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。(『浄土論』聖典137)

入第一門とは、阿弥陀仏を礼拝したてまつりて、かの国に生まれんとするをもってのゆえに、安楽世界に生まるることを得、これを入第一門と名づく。入第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆したてまつりて、名義に随順し、如来の名を称し、如来の光明智相に依って修行するをもってのゆえに、大会衆の数に入ることを得、これを入第二門と名づく。(『浄土論』聖典144)

入第三門とは、一心に専念し作願して、かの国に生まれて奢摩他寂静三昧の行を修するをもってのゆえに、蓮華蔵世界に入ることを得、これを入第三門と名づく。入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修するをもってのゆえに、かの処に到ることを得て種種の法味楽を受用す、これを入第四門と名づく。(『浄土論』聖典144)

出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園・煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく。(『浄土論』聖典144)

功徳大宝海...大いなる宝を海のように恵む恵み、弥陀の本願力よりおこる念仏
大会衆...阿弥陀仏が浄土で今現に説法なさっておられる会座にいる人。弥陀の説法を聞いている人
蓮華蔵世界...華厳経に出てくることばで、諸仏の浄土をさすことば。ここでは弥陀の浄土をさす。
真如法性の身...真如と法性は同義で人間の腹会を越えた本来の世界、涅槃のこと涅槃にかなった身、仏身のこと
...思いのまま、自由自在
煩悩の林...煩悩がはてしなく茂る林、私たちが今生きている世界
神通...神は不思議を意味し、通は力・働き、仏菩薩の計り知れないはたらき。
生死の園...生き死にの矛盾に悩む苦海、迷いの世界
応化...仏菩薩が衆生救済のために衆生にあわせた身となって現れること

今現在説法
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。(『歎異抄』聖典626)
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。(『阿弥陀経』聖典126)
たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。(『大経』聖典18)
我、仏道を成るに至りて、 名声十方に超えん。
究竟して聞ゆるところなくは、 誓う、正覚を成らじ。(『三誓偈』聖典25)

咨嗟...ほめ称える
弥陀の説法を聞いた大会衆(仏菩薩)は弥陀ほめ称えた。
その声を私たちは聞いている。 弥陀の説法は過去のことかも知れないけど、その教えを聞いたものが弥陀を讃嘆する声は今まだ私の前で響いている。
弥陀の説法→本願を信じよ。本願を信じなければならない身がおまえだ。
私たちはすでに弥陀の説法を聞いている。少なくとも弥陀の説法を聞いた諸仏書菩薩が弥陀を讃嘆する声ー念仏ーを聞いている。
弥陀の説法を弥陀の説法として受け止められていない私たち、
今現在弥陀が説法されている現実に気づいていない私たち
我が身が明らかにならないから弥陀の本願を頂けない私

2009年8月 8日

天親菩薩造論説

天親菩薩造論説 帰命無碍光如来
依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力回向 為度群生彰一心

<試訳>

天親菩薩は浄土論をおつくりになられ、帰命盡十方無碍光如来と宣言され

釈尊の教えによって真実、すなわち迷いから速やかに飛び越える阿弥陀の誓願を明らかにされました。

そして、如来の願いによって我々を悟りの世界に渡らしめんがために一心という言葉を示してくださっています。

我論を作り、偈を説きて、願わくは弥陀仏を見たてまつり、普くもろもろの衆生と共に、安楽国に往生せん。(『浄土論』聖典138)

世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず。(『浄土論』聖典135)

我修多羅、真実功徳の相に依って願偈を説いて総持して、仏教と相応す。

(『浄土論』聖典135)

仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。(『浄土論』聖典137)

出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園・煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく。(『浄土論』聖典144)

世尊、我一心に(『浄土論』聖典135)普くもろもろの衆生と共に、安楽国に往生せん。(『浄土論』聖典138)

親鸞の名告
流罪以後の名告り
範宴→綽空→善信→親鸞
天親菩薩
西暦四〇〇年ごろに生まれられて、四八〇年ごろに亡くなられたと推定されている
インド名をヴァスバンドゥといい、訳して天親といいますが、一般には世親という訳名がよく用いられている
現在のパキスタン、ペシャワールの人で、無著菩薩の弟。
上座部仏教について五百部、大乗仏教について五百部の論(注釈書)を造ったといわれ、「千部の論主」と称されていま
世親の兄の無著菩薩は、すでに上座部仏教に帰して諸国で説法をしていました。彼は、弟の天親が上座部仏教にとらわれて大乗仏教を悪くいうのを少なからず心配していました。たまたま、天親が近くを通ることを知った無著は、一計を案じ、弟子に「兄の無著菩薩が危篤だ」と伝えさせます。驚いて駆けつけた天親に向かって無著は言います。「わしは心の病気じゃ。その原因はお前なのだ。お前は上座部仏教にこだわりすぎ、大乗の何であるかをまったく知ろうとしない。そのためにお前が将来大きな苦を受けるだろうと思うと、心が安まらんのじゃ」
無著は天親に大乗の教えを説いて聞かせました。天親は大乗を誹謗した自らの誤りに少し気づきはじめます。その日は兄・無著のところに泊まることになりました。深夜、人の声がします。目をさまして静かに聞いていた世親は翻然として大乗の教えのすばらしさに気づいたのです。世親が聞いたのは無著の弟子が大乗経典を読誦する声だったのです。
世親は直ちに大乗に帰するとともに、今まで大乗を誹謗したことを大いに懺悔し、大乗を誹謗した自らの舌を断ち切ろうとしました。その時、兄の無著は「舌を断ち切っても真の懺悔にはならない。本当にすまないと思うのであれば、大乗を誹謗したその舌で大乗の教えを生命をかけて説いていくべきではないか...」と諭したといわれている。
本願力廻向と我一心
廻向...廻めぐらす 向さしむける 自分が行った善行を巡らしひるがえして衆生や自分の悟りのために差し向けること。死者のためにする追善。
衆生廻向から本願力廻向
一心→ただ念仏→念仏を称えなければならない身の発見
「本願力廻向」樋ことの願い 、真理を悟るとは自己を覚るということ

2009年7月11日

顕示難行陸路苦

顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

<試訳>
龍樹菩薩は難行は陸路を一人で歩むように苦しいことをあわわし水路をみんなで船に乗って渡るような易行を自ら信じられました
阿弥陀仏の本願を忘れず念ずる易行の道をすすめば、そのとき、自ずから当たり前のように、必ず悟りをひらくことが定まるのである。
ただ、よく、つねに、阿弥陀仏のみ名を称えるという如来大悲の広い誓いに報い応えていこう。と導いてくださっています。

佛法に無量の門有り、世間の道に難有り易有り、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乘船は則ち樂しきが如し。(易行品『聖全』254)

人能く是の佛の無量力功德を念ずれば 即の時に必定に入る 是の故に我常に念じたてまつる(易行品『聖全』260)

憶念...憶は憶(こころ)持(たもつ)、念は明記不忘。心にたもって忘れず、恒に思い出すこと
自然...「自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむるということばなり。然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。『末灯鈔』」
即...すぐさま
『十住毘婆沙論』(じゅうじゅうびばしゃろん)は仏教の論書であり、17巻。著者はインドの仏教学者龍樹(りゅうじゅ)である。5世紀初め鳩摩羅什(くまらじゅう)が訳した漢訳のみが現存し、サンスクリット原典もチベット訳も伝わっていない。
現存する漢訳は、偈頌と散文とでできており、偈頌の内容を散文で解説している。しかし、散文の部分については龍樹作とすることに疑問がもたれている。
鳩摩羅什は、インド僧仏陀耶舎(ぶっだやしゃ)が口誦したものを漢訳したと言われている。しかし、翻訳について両者の意見が対立して未完に終わった、と伝えられている。これは、鳩摩羅什の翻訳方法が、多分に彼自身の解説や、彼自身が記憶する仏典を交えながら翻訳する形態を採っているので、散文にはそれが多分に入っていると考えられる、
本書は華厳経の一部の『十地経(じゅうじきょう)』の注釈だが、大乗菩薩の思想と実践を『十地経』に依拠して説いたものである。
後世、浄土教の念仏易行道(ねんぶついぎょうどう)を説く一章「易行品(いぎょうぼん)」がとくに注目され、この章についての研究は多いが、全体としての研究はほとんどない。
龍樹の『菩提資糧論(ぼだいしりょうろん)』との関係も深いので、大乗仏教を理解するうえで、きわめて重要な論書である

問て曰く。是の阿惟越致の菩薩の初事先に説くが如し。阿惟越致地に至るには、諸の難行を行ずること、久しくして乃ち得べし。或は聲聞辟支佛地に墮す。若し爾らば是大衰患なり。(易行品)
問うていう。この不退の菩薩が初地に入るまでの修行のありさまは、さきに説いた通りである。不退の位に至るについては、多くの難行を行じ、久しい間かかってようやくこれを得ることができるので、あるいは声聞・縁覚の地位に退堕することがある。もしそうなれば、これは大きな損失であり、災患である。(現代語訳)


仏教における二乗(にじょう)とは、声聞乗(しょうもんじょう、Śrāvakayāna)と縁覚乗(えんがくじょう、Pratyekayāna)の二つを指していう用語。「乗」とは乗物の意味で、声聞や縁覚の人びと、あるいはかれらの立場を意味する。
二乗は、現世に対する執着を断った聖者(阿羅漢)ではあるが、大乗仏教からは現実逃避的・自己中心的であり、利他の行を忘れたものとして「小乗」と蔑称される。直接「小乗」と名指しで非難されたのは、西北インドに勢力を有した説一切有部や犢子部(とくしぶ)などのいくつかの部派であったようである。『大智度論』では、小乗と呼ばれた彼らは大願も大慈大悲もなく、一切の功徳も求めようとせず、ただ老病死の苦から脱することのみを求めるとされている。
大乗仏教では、「二乗の者は地獄にさえ堕ちない」と言われることがある。これは、地獄に堕ちた者はふたたび生まれ変わって大乗の教えに回入するかもしれないが、地獄に堕ちない者はふたたび仏の教えに逢うことはないので、成仏することはないという意味で、二乗は仏になれないと非難されているのである。


声聞 (しょうもん、サンスクリット:श्रावक Zraavaka)は、仏教において「教えを聴聞する者」の意で、初期経典では出家・在家ともに用いられる。後になると出家の修行僧だけを意味した。
声聞には、上から阿羅漢果(応供)・阿那含果(不還)・斯陀含果(一来)・須陀洹果(預流)の4つの目標(「向」)と、それに応じた4つの結果(「果」)があるとされ、これを四向四果という。
大乗仏教の立場からは、声聞は、主に四諦を修習し、自己の解脱のみを得ることに専念し、利他の行を欠いた、阿羅漢を目指す修行者であるとして、小乗と貶称される。


縁覚(えんがく、pratyekabuddha、paccekabuddha、サンスクリット:प्रत्येक बुद्ध)とは、仏教やジャイナ教において、師なくして独自にさとりを開いた人をいう。旧訳ではサンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、辟支仏(びゃくしぶつ)と訳す。また独覚とも漢訳される。
仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分ける。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、声聞とともに二乗と呼んで下に見る。


2009年5月 9日

印度西天之論家

印度西天之論家 中夏日域之高僧
顕大聖興世正意 明如来本誓応機

<試訳>

インドの菩薩様、中国をはじめとする東アジアの高僧によって

釈迦仏の本意を顕らかにしてくださった

まさしく今を生きる私たちにふさわしい弥陀如来の本願をあきらかにされたことを


龍樹...難行易行を分かつ

天親...帰命尽十方無碍光如来 普共諸衆生願生安楽国 一心

曇鸞...難自力 易他力

道綽...聖道浄土を分かつ

善導...正行雑行を分かつ 他力正行の浄土門は生まれ易い

源信...末法の世に於いて念仏

源空...浄土宗をひらく


七祖摂取①著書の有無②宗義の発揮③解行の完不




前463年 - 前383年前560年 - 前480年

釈尊__龍樹・天親  曇鸞・道綽・善導・源信・源空

仏___菩薩____諸師
経___論_____訳
依経分_依訳分
_______________善導独明仏正意(観経)
_______________→顕大聖興世正意 明如来本誓応機

釈尊  前463年 - 前383年、前560年 - 前480年 前5C

龍樹 150‐250年ころ
天親 四世紀ゴロ
曇鸞 476-542
道綽 562-645
善導 613-681

源信 942-1017
源空 1133-1212
親鸞 1173-1262

日域は大乗相応の地

親鸞夢記云

建久二歳辛亥暮秋仲旬第四日ノ夜

聖徳太子善信ニ告勅メ言ク

 我三尊化塵沙界 日域大乗相應地

 諦聽諦聽我教令 汝命根應十餘歳

 命 終速浄土入 善信善信真菩薩

正治第二庚申十二月上旬

 叡*南旡動寺在二大乗院一同月下旬終月

 前夜四更ニ

 如意輪観自在大士 告命シテ言ク

  善哉善哉汝ニ願将滿足

  善哉善哉我カ願亦滿足

 建仁元歳辛酉四月五日ノ夜寅時

六角堂ノ救世大菩薩告二命シテ

善信ニ一言ク

 行者宿報ニシテ設ヒ女犯ストモ

 我成リテ玉女ノ身ト披レン犯セ

 一生之間能ク荘厳シテ

 臨終ニ引導シテ生セシム極楽 文

(ママ)

干時建長二年庚戌四月五日ノ寅時

       愚禿釈親鸞七十八歳

                書之



五濁の世無仏の時→末法の世(行人のない世)

2009年4月26日

彌陀佛本願念佛

彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生
信樂受持甚以難 難中之難無過斯

<試訳>

阿弥陀仏の本願よりおこる念仏は

よこしまな見方自分を驕るという悪に充ち満ちた私たちは

そのままの心では信じることがとても難しい

憍慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信じ難し。(大経巻上<東方偈> 聖典50)

憍慢と蔽と懈怠のものは、 もってこの法を信ずること難し。(無量寿如来会 聖典160行巻)

もしこの経を聞きて信楽受持すること、難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし。(大経下巻 聖典87)


憍慢:おごりたかぶる心。根本煩悩の一。
蔽:聞きようが悪いこと
懈怠:怠って経に報じないこと
邪見:私たち人間の自己中心性を問い、その歪(ゆが)み、傾きを糺(ただ)すことばです。(←→正見)
正見:「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪と を離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身の うえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」(samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)である。このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。しかし、その日常 性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成である。この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれ る。この正見は、以下の七種の正道によって実現される。その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。
八正道(はっしょうどう、aaryaaSTaaGgo-maargo、आर्याष्टाङ्गो मार्गो)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、 8種の徳。「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論では「八聖道支」としている。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから聖道(aaryaamaarga)と言う。
(以上Wikipediaより引用)

阿弥陀如来の大悲と釈迦如来の教え(すすめ)と諸仏
の勧め(群賊悪獣が迫り来る縁)
群賊悪獣を群賊悪獣と見抜く力

「讀誦大乘」と言ふは、此れ經敎は之を喩ふるに鏡の如し、數々(しばし)讀み數々尋ぬれば、智慧を開發す。若し智慧の眼開けぬれば、即ち能く苦を厭ひて涅槃等を欣樂することを明す。(観経疏序分義)
今更に行者のために、一つの譬喩を説きて信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん。何者かこれや。譬えば、人ありて西に向かいて行かんと欲するに百千 の里ならん、忽然として中路に二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底な し、南北辺なし。正しく水火の中間に、一つの白道あり、闊さ四五寸許なるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交わり過ぎ て道を湿す。その火焰また来りて道を焼く。水火あい交わりて常にして休息なけん。この人すでに空曠の迥なる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊悪獣あり て、この人の単独なるを見て、競い来りてこの人を殺さんと欲す。死を怖れて直ちに走りて西に向かうに、忽然としてこの大河を見て、すなわち自ら念言すら く、「この河、南北辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きわめてこれ狭少なり。二つの岸、あい去ること近しといえども、何に由ってか行くべき。今日定ん で死せんこと疑わず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸漸に来り逼む。正しく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣毒虫競い来りて我に向かう。正しく西 に向かいて道を尋ねて去かんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕せんことを。」時に当たりて惶怖すること、また言うべからず。すなわち自ら思念す らく、「我今回らばまた死せん、住まらばま た死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。この念を作す 時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。また西の岸の上 に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。この人すでに此に遣わし彼に喚 うを聞きて、すなわち自ら正しく身心に当たりて、決定して道を尋ねて直ちに進みて、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊 等喚うて言わく、「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。我等すべて悪心あってあい向うことなし」と。この人、喚う声 を聞くといえどもまた回顧ず。一心に直ちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。善友あい見て慶楽すること已むことなか らんがごとし。これはこれ喩なり。次に喩を合せば、「東岸」というは、すなわちこの娑婆の火宅に喩うるなり。「西岸」というは、すなわち極楽宝国に喩うる なり。「群賊悪獣詐り親む」というは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩うるなり。「無人空迥の沢」というは、すなわち常に悪友に随いて、 真の善知識に値わざるに喩うるなり。「水火二河」というは、すなわち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩うるなり。「中間の白道四五寸」という は、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなり。いまし貪瞋強きによるがゆえに、すなわち水火のごとしと喩う。善心微な るがゆえに、白道のごとしと喩う。また「水波常に道を湿す」とは、すなわち愛心常に起こりてよく善心を染汚するに喩うるなり。また「火焰常に道を焼く」とは、すなわち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩うるなり。「人、道の上を行いて直ちに西に向かう」というは、すなわちもろ もろの行業を回して直ちに西方に向かうに喩うるなり。「東の岸に人の声勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて直ちに西に進む」というは、すなわち釈迦すでに滅し たまいて後の人、見たてまつらず、なお教法ありて尋ぬべきに喩う、すなわちこれを声のごとしと喩うるなり。「あるいは行くこと一分二分するに、群賊等喚び 回す」というは、すなわち別解・別行・悪見の人等、妄に説くに見解をもって、迭いにあい惑乱し、および自ら罪を造りて退失すと喩うるなり。「西の岸の上に 人ありて喚う」というは、すなわち弥陀の願意に喩うるなり。「須臾に西の岸に到りて善友あい見て喜ぶ」というは、すなわち衆生久しく生死に沈みて、曠劫よ り輪回し迷倒して、自ら纏うて解脱に由なし、仰いで釈迦発遣して指えて西方に向かえたまうことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまうに籍って、今二尊の意に 信順して、水火二河を顧みず、念念に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命已後かの国に生まるることを得て、仏とあい見て慶喜すること何ぞ極まらん と喩うるなり。また一切の行者、行住座臥に、三業の所修、昼夜時節を問うことなく、常にこの解を作し常にこの想を作すがゆえに、「回向発願心」と名づく。 また「回向」というは、かの国に生じ已りて、還りて大悲を起こして、生死に回入して、衆生を教化する、また回向と名づくるなり。三心すでに具すれば行とし て成ぜざるなし、願行すでに成じてもし生まれずは、この処あることなしとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと。知るべし、と。(観経疏散善義)
「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に 没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じ て、定んで往生を得」と信ず。また決定して深く、「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむ」 と信ず。また決定して、「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と深信するなり。また深信する者、仰ぎ願わく は、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依って、仏の捨てたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏の 去てしめたまう処をばすなわち去つ。これを「仏教に随順し、仏意に随順す」と名づく。これを「仏願に随順す」と名づく。これを「真の仏弟子」と名づく。(観経疏散善義)

2009年3月15日

一切善悪凡夫人

一切善惡凡夫人
聞信如來弘誓願
佛言廣大勝解者
是人名分陀利華

<試訳>
すべての善悪に縛られている人々が阿弥陀仏の本願を聞いて信じれば佛は本当に広く理解したものと言われる。そのひとを汚泥に白く気高く咲く分陀利華と名付けられる。

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。(第十八願成就文...大無量寿経巻下)

一切善悪の凡夫、生まるることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなきなり(玄義分)

もし善男子善女人、彼の法の中において広大勝解の者(如来会)

もし念仏する者は、当に知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友と為りたまう。当に道場に坐して、諸仏の家に生ずべし(観無量寿経)

善悪と価値観と、覚者か凡夫人かという価値観
凡夫→一般人、一般でない→覚者、仏陀
八正道の正見

正見 (Wikipedia)

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪と を離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身の うえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」(samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)である。このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。しかし、その日常 性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成である。この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれ る。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。

無明無知の者が判断する善悪
無上なる者が判断する善悪
屠沽下類刹那超越成仏之法可謂一切世間甚難信也 屠は謂わく殺を宰どる、沽はすなわち醞売、かくのごときの悪人、ただ十念に由ってすなわち超往を得、あに難信にあらずや、と。
顕浄土真実信文類三
悪人とは差別する言葉 我が身のことがわからないものが他に発する言葉

我が身を正見することによって弥陀の誓願を聞信できる 浄土往生が約束される
知恵の照によって我が身の無明が明らかになる
我が身の罪悪を肥やしとして知恵の白蓮華が育つ
蓮の華はもっとも気高く尊い華なのですが、それでは、その華はどのような所に生育するのかということについて、親鸞聖人は『教行信証』に、『維摩経〈ゆいまきょう〉』というお経から、次のような経文を引用なさっています。
「高原の陸〈ろく〉地〈じ〉には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥〈おでい〉に、いまし蓮華を生ず。」(『真宗聖典』288頁)
 もっとも尊ばれる蓮の華は、実は、誰もが理想とするような、明るくて風通しのよい、すがすがしい場所に育つのではないのです。そうではなくて、誰からも遠ざけられるような、汚らしくてジメジメとした泥沼にこそ、蓮の華は咲くのです。一切の汚れに汚されていない真っ白な蓮華は、ドロドロと濁りきった泥沼のなかにしか咲かないのです。何とも不思議な感じがします。
 世間の泥にまみれている哀れな凡夫、煩悩にあふれた日常に埋没していて、そこから脱け出そうにも脱け出せない悲しい凡夫、何が人生の最後の依り処なのかがわからず、そのわかっていないことすら、わかっていない愚かな凡夫、そのように情けない凡夫であるからこそ、阿弥陀仏は救いたいと願っておられるのだと教えられています。
 私たちの日常は、まさに「卑湿の淤泥」であります。釈尊と親鸞聖人の教えから、そのような我が身のありようをつくづくと思い知らされて、阿弥陀仏から私たちに差し向けられている願いのことをよくよく聞かせてもらい、疑うことなく素直になって信じるならば、その人こそ、泥のなかに咲く白い蓮華であると言われているのです。何ともありがたいことです。(http://www.tomo-net.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge29.html)

2009年2月14日

獲信見敬大慶喜

獲信見敬大慶喜
即横超截五惡趣

<試訳>
心より念仏を称えることが出来るようになれば、真実を見て大きな喜びに満たされる。
そのとき堂々巡りの迷い人生から信心のはたらきによって裁ち切り越えることが出来る。

一切善惡凡夫人
聞信如來弘誓願
佛言廣大勝解者
是人名分陀利華

<試訳>
すべての善悪に縛られている人々が阿弥陀仏の本願を聞いて信じれば佛は本当に広く理解したものと言われる。そのひとを汚泥に白く気高く咲く分陀利華と名付けられる。

<尊号真像銘文>
「獲信見敬得大慶」というは、この信心をえて、おおきによろこびうやまう人というなり。大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。
「即横超截五悪趣」というは、信心をえつればすなわち、横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。即横超は、即はすなわちという、信をうる人は、ときをへ ず、日をへだてずして正定聚のくらいにさだまるを即というなり。横はよこさまという、如来の願力なり。他力をもうすなり。超はこえてという。生死の大海を やすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらくなり。信心を浄土宗の正意としるべきなり。このこころをえつれば、他力には義なきをもって義とすと、 本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおののはからうこころなり。このゆえに、おのおののはからうこころをもったるほどをば自力というなり。 よくよくこの自力のようをこころうべしとなり。

信-梵語→シュラッダー(心を澄んだ浄らかなものにする作用)
●濁っていて見えなかったものが見えてくる→真実が見えてくる
 

信の証、
決定往生の徴(しるし0)教行信証後序
  選択の書写、真影の図画

仏のちかいをもきき、念仏ももうして、ひさしうなりておわしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとうしるし、この身のあしきことをいといすてんとおぼしめすしるしもそうろうべしとこそおぼえそうらえ。『親鸞聖人御消息集(広本)』

としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ、おぼえそうらえ。よくよく御こころえそうろうべし
●この世のあしきことをいとうしるし
●この身のあしきことをいといすてんとおぼしめすしるし
   この身この世を厭うことが信心ということ

しるし 【験/徴】(1)これから起ころうとする物事の前ぶれ。きざし。前兆。徴候。



 蓮の華はもっとも気高く尊い華なのですが、それでは、その華はどのような所に生育するのかということについて、親鸞聖人は『教行信証』に、『維摩経ゆいまきょう』というお経から、次のような経文を引用なさっています。
「高原のろくには、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥おでいに、いまし蓮華を生ず。」(『真宗聖典』288頁)
 もっとも尊ばれる蓮の華は、実は、誰もが理想とするような、明るくて風通しのよい、すがすがしい場所に育つのではないのです。そうではなくて、誰からも 遠ざけられるような、汚らしくてジメジメとした泥沼にこそ、蓮の華は咲くのです。一切の汚れに汚されていない真っ白な蓮華は、ドロドロと濁りきった泥沼の なかにしか咲かないのです。何とも不思議な感じがします。
 世間の泥にまみれている哀れな凡夫、煩悩にあふれた日常に埋没していて、そこから脱け出そうにも脱け出せない悲しい凡夫、何が人生の最後の依り処なのか がわからず、そのわかっていないことすら、わかっていない愚かな凡夫、そのように情けない凡夫であるからこそ、阿弥陀仏は救いたいと願っておられるのだと 教えられています。
 私たちの日常は、まさに「卑湿の淤泥」であります。釈尊と親鸞聖人の教えから、そのような我が身のありようをつくづくと思い知らされて、阿弥陀仏から私 たちに差し向けられている願いのことをよくよく聞かせてもらい、疑うことなく素直になって信じるならば、その人こそ、泥のなかに咲く白い蓮華であると言わ れているのです。何ともありがたいことです。(http://www.tomo-net.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge29.html)

2008年10月11日

攝取心光常照護

攝取心光常照護
已能雖破無明闇
貪愛瞋懀之雲霧
常覆眞實信心天
譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇

<試訳>

如来は常に我が身を照らし護ってくださっている
すでに闇夜は明けているのだけれども
我が煩悩の雲霧によって
信心の空を覆っているのである
それは太陽を雲霧が覆っていても
私のまわりは明るくて闇ではないようなものである

<尊号真像銘文>
「摂取心光常照護」というは、信心をえたる人をば無碍光仏の心光、つねにてらしまもりたまうゆえに、無明のやみはれ、生死のながきよ、すでにあかつきにな りぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」というは、このこころなり。信心をうればあかつきになるがごとしとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心 天」というは、われらが貪愛瞋憎をくもきりにたとえて、つねに信心の天におおえるなりとしるべし。「譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇」というは、日月のく もきりにおおわるれども、やみはれて、くもきりのしたあきらかなるがごとく、貪愛瞋憎のくもきりに信心はおおわるれども、往生にさわりあるべからずとしる べしとなり。

光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。(観無量寿経)
ただ専ら阿弥陀仏を念ずる衆生あれば、かの仏の心光つねにこの人を照らして、摂護して捨てず(観念法門)

彼の無碍光如来の名号は、よく衆生一切の無明を破す(浄土論註)
よく十方衆生の無明の黒闇を除く(浄土論註)

「水火二河」というは、すなわち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩うるなり。「中間の白道四五寸」というは、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなり。(散善義)


【三毒】(さんどく)

迷いをつくり、さとりを妨げる根本原因。


① 貧欲(とんよく)
求める心。生きる意欲。物、性、名誉などに執着する心。
外なるものを、あたかも価値(意味)あるように見せかける悪魔の働き。
外なるものとは、主に、金、物、異性、子ども、自分、能力、
組織、社会、名誉、身体、生命など。
どんなガラクタも、求める心(貧欲)があるために、
なにか特別な価値があるように感じさせられてしまう。
求める心は人間の生得の心であり、
これなくして生物として存在しえないが、
この心は自身をコントロールできない。

② 瞋恚(しんに)
求める心が妨げられたとき、また、実現しないときに湧く感情で、
欲求を妨げられたときは怒りとなり、
欲しいものを他が持つと嫉妬になる。
求める心(執着)が強いほど、目標は高く、意志が強くなり、
攻撃的、野心的な人格をつくる。
負けるな、諦めるな。負けたらお前の人生は破滅だと、
声ならざる声に脅迫されながら、衰弱した心に鞭を入れ、
闘争心をかきたてる。
怒りと嫉妬は、再び貧欲に還り、執着をさらに高める。
なぜ、求めるかの疑問はない。

③ 愚痴(ぐち)
求める心に支配され、操られ、なぜ、それがしたいのかもわからず、
夢遊病者のように、本能、欲望、野心の言うがままの奴隷になっている。
その事実に気づかず、求めて得られない苦しみ、
ストレスにある自分の姿に気づかないことを愚痴(無明)という。
根本的、致命的な無知である。
人の心が貧欲に支配されている事実を隠すための、
貧欲がつくった悪魔的な仕組みである。
この心の秘密に気づく、すなわち、
貧欲に支配され、怒り・嫉妬に狂わされている自分の現実に気づくことを
「さとり」(目覚め・気づき)という。


常に我が身を照らしてくださると言うことは
我が人生に無駄がない、無意味がないということ
無駄、無意味は私の価値観

2008年9月13日

能發一念喜愛心

能發一念喜愛心
不斷煩惱得涅槃
凡聖逆謗齋廻入
如衆水入海一味

<試訳>
お念仏が心から大切だと思えたとき
あなたはそのままお浄土に往くことができるのです
出来る人、出来ない人も、逆らう人、謗る人も
いろんな川が海に入り同じく海水となるように
皆等しく往のです

信心一異の諍論
右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか。故聖人の御ものがたりに、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおおかりけるなかに、おなじく御信心のひとも、すくなくおわしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして、御相論のことそうらいけり。そのゆえは、「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」とおおせのそうらいければ、勢観房、念仏房なんどもうす御同朋達、もってのほかにあらそいたまいて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、ひとつにはあるべきぞ」とそうらいければ、「聖人の御智慧才覚ひろくおわしますに、一ならんともうさばこそ、ひがごとならめ。往生の信心においては、まったくことなることなし、ただひとつなり」と御返答ありけれども、なお、「いかでかその義あらん」という疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御まえにて、自他の是非をさだむべきにて、この子細をもうしあげければ、法然聖人のおおせには、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。別の信心にておわしまさんひとは、源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまいそうらわじ」とおおせそうらいしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心にひとつならぬ御こともそうろうらんとおぼえそうろう。いずれもいずれもくりごとにてそうらえども、かきつけそうろうなり。(歎異抄 聖典639)
 聖人 親鸞 のたまわく、いにしえ我が本師聖人の御前に、聖信房、勢観房、念仏房已下の人々おおかりし時、はかりなき諍論をし侍る事ありき。そのゆえは「聖人 源空 の御信心と、善信が信心といささかもかわるところあるべからず、ただ一なり」と申したりしに、このひとびととがめていわく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるる事いわれなし。いかでかひとしかるべき」と。善信申して云わく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆえは、深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおおけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、一たび他力信心のことわりをうけ給わりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も、他力よりたまわらせたまう、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかわるところなし、と申すなり」と、申し侍りしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、 わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよくこころえらるべき事なり」と云々 ここに、めんめんしたをまき、くちをとじてやみにけり(御伝鈔 聖典729)

念仏者の課題としての{信心一異」
  信心一位の諍論の物語は法然上人のお心を一番わきまえておられた方が
  親鸞聖人であったということを伝えるだけの話しなのだろうか。
  人間の持つ課題が語られているのでは
  誇りが埃になって浄土往生が明らかになっていかない
   新参者の親鸞が「我が信心と法然の信心は同じ」といった
   先輩方はそうだと頷けるだろうか (ちょっとなまいき)
   如来より賜りたる信心と頂いていても新参者の親鸞が言うと頷けない
   法然が言うと頷ける
  聞法暦何年、お寺に通って何年、そういうものを担いてでまい、
  共に歩めない私たち
「凡聖逆謗斉廻入」は私たちの終わりのない課題としてあるのでは
     (受け売りをアレンジして)

2008年8月 9日

10 如來所以興出世

如來所以興出世 唯説彌陀本願海
五濁惡時群生海 應信如來如實言


<試訳>
諸仏がこの世にお現れになったのは阿弥陀仏の本願をお教えになるためだけです。
末法五濁を生きる私たちは諸仏の教えを頂き、聞き続けて行かなくてはなりません。

「如来所以興出世」というは、諸仏の世にいでたまうゆえはともうすみのりなり。「唯説弥陀本願海」ともうすは、諸仏の世にいでたまう本懐は、ひとえに弥陀 の願海一乗のみのりをとかんとなり。しかれば、『大経』には、「如来所以 興出於世 欲拯群萠 恵以真実之利」とときたまえり。如来所以興出於世は、如来 ともうすは、諸仏ともうすなり。所以というは、ゆえというみことなり。興出於世というは、世に仏いでたまうともうすみことなり。欲拯群萠は、欲というは、 おぼしめすとなり。拯は、すくわんとなり。群萠は、よろずの衆生をすくわんとおぼしめすとなり。仏の世にいでたまうゆえは、弥陀の御ちかいをときてよろず の衆生をたすけすくわんとおぼしめすとしるべし。「五濁悪時群生海 応信如来如実言」というは、五濁悪世のよろずの衆生、釈迦如来のみことをふかく信受す べしとなり。(尊号真像名文)

釈迦の出世本懐から諸仏の出世本懐へ
釈尊の出世本懐(弥陀と法華)
如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう。世に出興したまう所以は、道教を光闡して、群萠を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。無量億劫に値いたてまつること難く、見たてまつること難し。霊瑞華の、時あって時に乃し出ずるがごとし(大無量寿経)
それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。当に知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり(大無量寿経)

諸仏世尊は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる(法華経方便品)
諸仏の出世本懐
五濁悪世委を生きる悪人を知らしむる諸仏
末法
『大集月蔵経』に云わく、「仏滅度の後の第一の 五百年には、我がもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固を得ん。第二の五百年には、定を学ぶこと堅固を得ん。第三の五百年には、多聞読誦を学ぶこと堅固を得 ん。第四の五百年には、塔寺を造立し福を修し懺悔すること堅固を得ん。第五の五百年には、白法隠滞して多く諍訟あらん。微しき善法ありて堅固を得ん。」今 の時の衆生を計るに、すなわち仏、世を去りたまいて後の第四の五百年に当れり。正しくこれ懺悔し福を修し、仏の名号を称すべき時の者なり。一念阿弥陀仏を 称するに、すなわちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念すでに爾なり、いわんや常念を修するは、すなわちこれ恒に懺悔する人なり。
 また云わく、経の住滅を弁ぜば、いわく釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、特にこの経を留めて、止住せんこと百年ならん、と。
 また云わく、『大集経』に云わく、「我が末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじ」と。当今、末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と(化身土巻)

立派なものから私にふさわしいもの(相応)

2008年7月12日

09 本願名号正定業

本願名號正定業
至心信樂願爲因
成等覺證大涅槃
必至滅度願成就
<試訳>
いのちの願いより生まれた阿弥陀仏のお名前は正しく定まるた根である それは浄土に生まれん者をすべて救うという願いが名前になったからである。
私が目覚めそして悟ることが出来るとするならば、それは阿弥陀仏の必ず悟りを至らせるという願いがかなっているからです。
尊号真像銘文
 「本願名号正定業」というは、選択本願の行というなり。
「至心信楽願為因」というは、弥陀如来回向の真実信心なり。この信心を阿耨(あのく)菩提(ぼだい)の因とすべしとなり。
「成等覚証大涅槃」というは、成等覚というは、正定聚のくらいなり。このくらいを龍樹菩薩は、「即時入必定」とのたまえり。曇鸞和尚は、「入正定之数」とおしえたまえり。これはすなわち、弥勒のくらいとひとしとなり。証大涅槃ともうすは、「必至滅度の願成就」のゆえに、かならず大般涅槃をさとるとし るべし。滅度ともうすは、大涅槃なり。
※阿耨菩提→阿耨多羅三藐三菩提、この上ない悟り、仏の悟りを意味する
親鸞聖人御消息集(広本)
往生は、なにごともなにごとも、凡夫のはからいならず、如来の御ちかいに、まかせまいらせたればこそ、他力にてはそうらえ。

念仏往生の願は、如来の往相回向の正業正因なりとみえてそうろう。まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、「如来とひとし」とも、諸仏のほめさせたまいたりとこそ、きこえてそうらえ。また、弥陀の本願を信じそうらいぬるうえには、義なきを義とすとこそ、大師聖人のおおせにてそうらえ。かよう に義のそうろうらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえてそうろう。他力ともうすは、仏智不思議にてそうろうなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚上覚のさとりをえそうろうなることをば、仏と仏とのみ御はからいなり。さらに行者のはからいにあらずそうろう。しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。 義ともうすことは、自力のひとのはからいをもうすなり。他力には、しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。

<他力>
他力→煩悩公所苦の凡夫の自覚、自力無効の自覚
他力を頼み自力を捨てる?
  自力を捨てるという自力
  自力無効の自覚、うなずきは、自力を尽くした者が出来るのでは
   自力無効といって何もしない者は自力無効ということは知識として理解できるが
   本当にそのことが頷けるだろうか。




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2008年6月14日

08 普放无量无邊光

普放无量无邊光
无碍无對光炎王
清淨歡喜智慧光
不斷難思无稱光
超日月光照塵刹
一切群生蒙光照
<試訳>

はかりしれなく限りない光、さまたげなく比べものにならない燃えさかる炎のような光、清らかな喜びを与える智慧の光、ずっと思いつくすことなく言い尽くすことのできない光、太陽をも月をも越えた光を阿弥陀仏は幾多の国々にはなつ。そしていきとしいけるものすべてが弥陀の慈悲に我が身が照らされる

如来の徳がひかりというよりは
如来を光として感じる

    「帰命尽十方無碍光如来」ともうすは、帰命は南無なり。また帰命ともうすは、如来の勅命にしたがうこころなり。尽十方無碍光如来ともうすは、すなわち阿弥陀如来なり。この如来は光明なり。尽十方というは、尽はつくすという、ことごとくという。十方世界をつくして、ことごとくみちたまえるなり。無碍というは、さわることなしとなり。さわることなしともうすは、衆生の煩悩悪業にさえられざるなり。光如来ともうすは、阿弥陀仏なり。この如来はすなわち不可思議光仏ともうす。この如来は智慧のかたちなり。十方微塵刹土にみちたまえるなりとしるべしとなり。(尊号真像銘文)


    尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなわち座より起ち、偏えに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して仏に白して言さく、「今日、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とまします。明らかなる浄鏡の裏表に影暢するがごとし。威容顕曜にして超絶したまえること無量なり。未だ曾て瞻覩せず。殊妙なること今のごとくましますをば。唯然り。

     その時に次に仏ましましき。世自在王、如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。時に国王ましましき。仏の説法を聞きて心に悦予を懐き、尋ち無上正真道の意を発しき。国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰いき。高才勇哲にして、世と超異せり。世自在王如来の所に詣でて、仏の足を稽首し、右に繞ること三帀して、長跪し合掌して頌をもって讃じて曰わく、
       光顔魏魏として、威神極まりましまさず。
      かくのごときの焰明、与に等しき者なし。

巍...たかい 高大な様

光を光として感じる 星は昼も輝いているが、太陽がまぶしすぎて見えない、闇夜だから星を感じる
無明の闇を破す

2008年5月10日

07 重誓妙声聞十方

覩見諸佛淨土因
國土人天之善惡
建立无上殊勝願
超發希有大弘誓
五劫思惟之懾受
重誓名聲聞十方

<試訳>
法蔵菩薩は
いろんな仏様が仏の国を造られようとした願い、
仏様の国に住むものの有り様を世自在王仏より聞き取られ
なにものにもまさる大いなる願いおこされ
かつてない深い誓いを建てられたのでした。
計り知れないぐらい長い間自分はなぜ仏になるのかを問われ仏に我が願いをのべられました
重ねて我が名と我が名のいわれがあらゆる人々に届けたいと誓われた

重誓名聲聞十方
仏、阿難に告げたまわく、「その時に法蔵比丘、この願を説き 已りて頌を説きて曰わく、
  我、超世の願を建つ、 必ず無上道に至らん、
  この願満足せずは、 誓う、正覚を成らじ。
  我、無量劫において、 大施主となりて
  普くもろもろの貧苦を済わずは、 誓う、正覚を成らじ。
  我、仏道を成るに至りて、 名声十方に超えん。
  究竟して聞ゆるところなくは、 誓う、正覚を成らじ。(無量寿経)

舎利弗、汝が意において云何。かの仏を何のゆえぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし。このゆえに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民も、無量無辺阿僧祇劫なり、かるがゆえに阿弥陀と名づく。(阿弥陀経)
 
 十方微塵世界の
  念仏の衆生をみそなわし
 摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃)


普放无量无邊光
无碍无對光炎王
清淨歡喜智慧光
不斷難思无稱光
超日月光照塵刹
一切群生蒙光照

<試訳>

はかりしれなく限りない光、さまたげなく比べものにならない燃えさかる炎のような光、清らかな喜びを与える智慧の光、ずっと思いつくすことなく言い 尽くすことのできない光、太陽をも月をも越えた光を阿弥陀仏は幾多の国々にはなつ。そしていきとしいけるものすべてが弥陀の慈悲に我が身が照らされる

如来の徳がひかりというよりは
如来を光として感じる

「帰命尽十方無碍光如来」ともうすは、帰命は南無なり。また帰命ともうすは、如来の勅命にしたがうこころなり。尽十方無碍光如来ともうすは、すなわち阿弥 陀如来なり。この如来は光明なり。尽十方というは、尽はつくすという、ことごとくという。十方世界をつくして、ことごとくみちたまえるなり。無碍という は、さわることなしとなり。さわることなしともうすは、衆生の煩悩悪業にさえられざるなり。光如来ともうすは、阿弥陀仏なり。この如来はすなわち不可思議 光仏ともうす。この如来は智慧のかたちなり。十方微塵刹土にみちたまえるなりとしるべしとなり。(尊号真像銘文)

尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなわち座より起ち、偏えに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して仏に白して言さく、「今日、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏 とまします。明らかなる浄鏡の裏表に影暢するがごとし。威容顕曜にして超絶したまえること無量なり。未だ曾て瞻覩せず。殊妙なること今のごとくましますを ば。唯然り。

 その時に次に仏ましましき。世自在王、如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。時に国王ま しましき。仏の説法を聞きて心に悦予を懐き、尋ち無上正真道の意を発しき。国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰いき。高才勇哲にし て、世と超異せり。世自在王如来の所に詣でて、仏の足を稽首し、右に繞ること三帀して、長跪し合掌して頌をもって讃じて曰わく、
   光顔魏魏として、威神極まりましまさず。
  かくのごときの焰明、与に等しき者なし。
巍...たかい 高大な様

光を光として感じる 星は昼も輝いているが、太陽がまぶしすぎて見えない、闇夜だから星を感じる
無明の闇を破す