今教団では宗祖親鸞聖人の750回御遠忌に向かってよそ見をする暇なく猛進している。
その教団の中にいる私も当然としていつの間にか気になってくるし、気にしている。
最近御遠忌って何なんだろうって考える。
何故御遠忌を勤めるのか、何故50年ごとに大きな法要を勤めるのか、なんて考える。
御遠忌の忌という字は「いむ」という字だ、嫌うということになるのだろう。
宗祖がお亡くなりになり750年遠く経つことを嫌う、哀しむ。
そういう意味が一つ私はあると思う、っていうかそういうことが大事だと感じる。
釈迦如来かくれましまして
二千余年になりたまう
正像の二時はおわりにき
如来の遺弟悲泣せよ
と言う正像末和讃の最初のうた
宗祖と仰ものが宗祖がかくれましまして750年経つことを悲泣する
宗祖に直接お会いできないことを悲しむことが一つ大事だと思う。
そしてもう一つ
像末五濁の世となりて
釈迦の遺教かくれしむ
弥陀の悲願ひろまりて
念仏往生さかりなり
宗祖が亡くなられて750年経つけれども、でも、宗祖の教え、念佛の教えが今わたしの所に伝わってきている。750年かけて私の所に手から手へとリレーのように念佛が私の所に運び込まれていることを喜ぶ。教えが伝わっている事実を喜ぶことも大事だと思う。
悲しむだけでなく、でも喜ぶばかりでなく、
悲しみと喜び、この二つがバランス良く戴く必要があるのではないと思うんですよ。
喜びと悲しみが何故か同居しているみたいな感情が、私たちには大事なんではないかと。
今の教団の御遠忌は、何か喜び、を強調しすぎ、喜びを押しつけしすぎと私は感じています。
真宗門徒一人も無し
っていうか、
末法の確認、凡夫の確認というものを、
私たちの真宗大谷派は末法の世の凡夫が作る教団だったっていう確認をみんなでしていくことが大事だと...。
親鸞の教えを伝える教団なのだけど、親鸞の願いを伝えているのか、受け継いでいるのか、750年経ってどうなんだ。なんていう問いを私は御遠忌を迎えるというご縁でこのことを大事な問いと私もしていかなならんと思うし、教団もしていかなければならんと強く思うわけであります。