2012年3月 7日

自称ということ

今本漫才師でこの間までよく司会をしていた人が、霊媒師やら占い師とかにマインドコントロールされて自立できてないなんていうことがテレビのワイド賞などで騒がれている。私も一緒になってテレビを見入っているのだけど....
そこで、自称霊媒師とか、自称占い師という詞書になる。
「自称」らしいのだ。
自称というのはその人一人で名乗っているっていうことなのだろう。
でも、私たちの宗祖親鸞聖人は、非僧非俗という言葉で、ある意味自称僧侶だと名乗られている。
もう官度僧としての僧侶の資格は朝廷から剥奪された。だけど、いわゆる俗人として生きる気はなく、誰が認めなくても僧侶として生きる、私度僧として生きていくのだと、非僧非俗と名乗られたことだと思う。
そういう意味で自称という名乗りは大切な名乗りなのではないかと思う。

私たちが自称何々という風にレッテルを貼るときは、あいつかかっに名乗っているだけ、何のライセンスもないやつなのだ。ということなのだろう。
ある意味自らの名乗りというところでこの言い方をするのでなく、ライセンスがるかないかというところで、どこか公のところが認めているかどうかというところで自称という言い方をするのではないだろうか。

本来どんな職業も立場も@「自称」という立場は大切だと思うし、みんな自称なのだ。
本当は公なところが、そのことについて権力を持っているところが認めているかどうか、が大事ではなく、
人が認めていくこと、民衆が認められていくことが大切なことなのではないだろうか。
あいつは自称何々なんていう言い方は抑圧を感じる言葉だ。そう思う、おいらは。

2012年3月 1日

さわり

さわりというお代をいただいて次回お話ししなければならないので、走り書きというか、メモ書き。忘備録

碍…さまたげる。礙の異字対  障…さまたげ、邪魔をする、防ぐ、隔てる、仕切り

無碍光如来、…さわりなき光なる如来
無碍光如来より私たちがさわりあるものとして照らし出されている。

わたしたちはさわりを知らされるとさわりなき者になろうと歩のだけれども、
だけどたまにさわりなき者になったつもりになることもある。
仏は無碍、凡夫は有碍、梵輔がむげということはあり得ない。

障碍と障害
障碍を仏教語読みすると「しょうげ」と読むが、一般的には「しょうがい」と読む
しょうがいしゃは明治時代には障碍者と書いた。それが、1946年当用漢字表(公文書やメディアなどに用いるべき範囲の漢字)が掲載され、その中に「碍」の字がなかったので、障害者というように表記するようになったようだ。
その中で今、障害者と表記せず、障がい者、障碍者、「障害」者、「障害者」と表記する動きがある。
しょうがいしゃは「害」なのかという問いかけがあるのだと思う。
障碍者から、「私は害なる存在ですか?という問いかけがあってだろう。
害…損なう、傷つける、災い、災難、さまたげ、邪魔をする。
わたしたちは邪魔な存在なのですか?という問いなのだろう
「障害者」と書き直した人の意図はどうであれ、

でも、私たちの意識の中に邪魔な存在という意識が全くないわけではない。

そう思いたくなくても健常者として育ってきたら、ついそう思ってしまうのが現実では。


さわりを悪としていくのではなくさわりを徳としていく

”円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なり”

さわりを壊していくのではなく、乗り越えていくのではない。
さわりに跳ね返してもらう歩み
さわりによって修正しておらう。方向をただしてもらう。
さわりにはじき飛ばしてもらうことによってゴールに向かっていくことが出来る。
さわりこそ私たちにとって大事なもの。かけがえのないもの。さわりがなかったらどこに行くかわからない。
さわりは害ではなく、大事なものなんだ。個人的にはいやなものだけど、痛いし、だから得ではない。
私個人の感覚からすれば痛いもの損したものという意識がある。
浄土へ向かっていくための働き、修正装置なのでは。だからさわりが如来の徳。そのことが南無阿弥陀仏を称えることによって、知らされる。如来の光によって、光なる如来によって知らされる。



2012年1月 1日

2012年 年賀

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本年もよろしくお願いいたします。