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人権感覚の薄さ? インフルエンザ関係
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畑 覚え書き (秋)
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かやい(かゆい)
2009年10月10日
本師曇鸞梁天子
本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦
<試訳>
曇鸞大師は梁の王に菩薩と頂かれ常に向き礼拝された
菩提流支に『観経』を授けられてすぐさま仙経を焼き阿弥陀仏に帰依された。
(このように、曇鸞の)自分の行と他人への教化は流れ流れて弘まった。魏主(ぎのこうてい)は彼をたっとんで神鸞といった。勅を下して幷州大寺(ビョウシュウダイッジ?)に住まわせた。(『続高僧伝巻六』大乗仏教中国日本編14高僧伝:中央公論社刊71)
名山に往き、(仙)方をたよりに(仙術を)おさめようとした。落下(らくよう)にあるいてゆき、中国三蔵の菩提流支に逢った。曇鸞は往って申し上げていった、「仏法の中でもし長生不死の法で此土(ちゅうごく)の仙経よりも勝れているものが有るでしょうか」と。流支は大地に唾(つばき)していった。それは何という言葉なのか。あい比べるどころのものではない。此方(このよ)の何処に長生の法があるのか。たとい長生(ながいき)できても少時(しばらく)死なないだけだ。結局こもごも三有(さんがい:欲界色界無色界)に輪廻するだけだ」と。すぐに『観経』を授けていった、『これは偉大な仙方である。これによって修行したならば、きっと生死を解脱することが出来よう」と。曇鸞はついで頂礼をして受けた。持ってきた仙方はみな火で焼いた。(『続高僧伝巻六』大乗仏教中国日本編14高僧伝:中央公論社刊71)
魏の主勅して并州の
大巌寺にぞおわしける
ようやくおわりにのぞみては
汾州にうつりたまいにき
魏の天子はとうとみて
神鸞とこそ号せしか
おわせしところのその名をば
鸞公厳とぞなづけたる
本師曇鸞和尚は
菩提流支のおしえにて
仙経ながくやきすてて
浄土にふかく帰せしめき
魏の天子はとうとみて神鸞とこそ号せしか
おわせしところのその名をば
鸞公厳とぞなづけたる
竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、 太上天皇 諱尊成、今上 諱為仁 聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。 主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。
これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。 皇帝 諱守成 聖代、建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛して已後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。奇瑞称計すべからず。『別伝』に見えたり。(教行信証後序 聖典398)
2009年10月 6日
せっかく金沢へ通っているので、いってきました。
2009年10月 2日

