2009年9月アーカイブ: ごぼはんのひとりごと

2009年9月28日

やっと仕上げた!

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今朝早起きしてというか、夜中眠れなくて、ごぼはんだよりをしあげていました。本当はもっと早く仕上げておくつもりでしたが、やっと今仕上がりました。今月は報恩講の案内号も発行しなくてはならないので、またすぐ次号発行に取り組んでいかないとならないわけですわ。
とにかくとにかく自坊の報恩講に向って準備を始めていかないとなりません。
よろしければごぼはんだよりご覧になってください。

2009年9月23日

苗また頂く

昨日夕方、別の刀のだけど、近所のおばさんから白菜の苗を頂いた。
ということでお葬式から帰ってきてから畝を作り植え付けました。肥やしがなかったので、園芸用の発行油かすをやった。何となく高ついたような気がする。
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お葬式から帰ってきてからあんまり元気がありません。
失敗したって言うことはないんですけど、
寂しいというか元気がありません。
102歳という近所では最高齢のお婆ちゃんのお葬式だったんですけど、
考えて着ればこのお婆ちゃん昔からお婆ちゃんだった。最近のお婆ちゃんは昔おっかちゃんやった人がいつの間にかお婆ちゃんになっている人ばっかり、
私の記憶の中で昔からお婆ちゃんやった人はこの人が最後。

お参りに行ってお茶を頂いたら、お茶菓子でなくいつも漬けもんをくださった。
それもて出されといわれその手の中に漬けもんをおいてくださった。
そんなイッパイ喋ったわけでもなかった、黙っていっしょにテレビを見てただけのこともあった。
色々思い出が浮かんでくる。
血がつながっているわけでもない。
寺檀関係のあるお宅でもない。
でも、いつもお参りさせていただいてて、...
色んな思い出が浮かんでくるとなんか寂しい。

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2009年9月22日

久々に畑仕事、

昨日は畑で耕す。
今朝、多分ブロッコリーを植えた。
多分というのは自信がないから多分なのだ。
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異臭感ぐらい前、ウチの近くに畑をされている方が、路上で、苗をやると言っていただいていた。
多分ブロッコリーと、。
それを昨日持ってきてくださった。自分が留守をしているときに届けてくださってて、長男が応対した。
そして夕方畑を耕しているときによってきてくださって、置いておいたよって。
そんときもブロッコリーと言っておられたような、キャベツって言っておられたような...どうも記憶が確かでない。
実は苗をくださるって言ってくださってたので、ある意味畑を耕すのを急いだ。
苺の移植、タマネギ、豆系を植えたり蒔いたりする準備をせなならんと思ってたんけど、いつものように重いだけだった。
くださるって言うので昨日急いで耕したわけです。
そして今朝、どんな苗を頂いたんかなと思い探したけど、見あたらない、玄関、納屋、その他色々探したけど見あたらなくて、結局長男をたたき起こして、何処において行かれたかって言うことを聴取した。
そうすると日の当たらないところにあって、あまり泥もついてなかった。
っていうことで浅いソイで納屋にあった油かすをまき、畝を作り、苗を植え付けたわけです。
ちょっと突貫行使時過ぎたかな。
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あと時間を見つけてまた畝を作って苺を移植する要諦です、今日は。

久々の畑仕事でした。

2009年9月16日

変わるべきはどちらのほうなのか、 自死ということを縁として考えた

今月26日私が幹事を務める小委員会で自殺に関する学習会を催す。
そんなことがあって色々自殺について考えている。
今回お話しをしていただける方は高橋祥友さんという方です。この方の話を私は聞いたことは全くないし、本も読んでいません。どんな方はほとんど知りません。
ただ彼のプロフィールを覗いてみると、
残された家族のケアーをされているらしい。
そのことが目につく。
自分の回りでは数人の方が自ら命を絶って往かれた。
でもその中で遺族のケアーという意識はほとんど無かったような気がする。
それどころか、
口には出さないけど、そういうあなたの姿勢が問題なのではないか、
とか、
そういうあなたの性格が自殺を誘引したのではないかと、
心の中で問いかけていた。
そういう自分が問い返される。
その思いは間違えかも知れないけど、あたっているかも知れない。それは私には計り知れない。
ただ、自分がそういうことを思ってしまっているとき、
知人が自ら命を絶ったことによって、自らを問うということがない。
自分と無関係なところでその人が命を絶っていったことにしている自分がいる。
それでいいのだろうか、と今思っている。

また、自殺志願者や、ウツの方を目の前にすると、
なんとかしてあげたい、たすけたい、とおもう。
こうおもうのはとうぜんのことなのかもしれない。
それを否定する気は全くない。本当に大切な姿勢だ。
でもそういう時自分は「救済者」になってしまってるのではとも思う。
助ける立場、助けられる立場がはっきりできてる。
助ける立場は本当に助ける立場だけでいいのだろうか。
変わるのは相手だけなのだろうか。
私は変わる必要がないのだろうか。
私たちの生き方がウツを誘引しているということはないのだろうか。
そういうことを今考えています。
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頑張れ!田中美枝子議員

民主の田中美絵子議員が謝罪「生きるために...」
2009.9.15 19:54 sanspo.com
 民主党の田中美絵子衆院議員がホラー映画へのヌード出演や風俗ライターだった経歴が明らかになった問題で、田中議員は15日、都内でホテルで報道陣の取材に応じ、「世間をお騒がせし、心からおわびします」と謝罪した。
 田中議員は「厳しい経済状況の中で、生きるためにいろんなことに挑戦した」としたうえで、「社会的弱者の目線に立ったぬくもりのある政治をしたい」と述べた。
こんなことがニュースになっているっていうことを今日まで知らなかった。今日テレビを見て初めて知ったニュースだった。
いうまでもなく今日は鳩山政権が出来た日だ。
正直、記事としては気になる記事には間違いない。こういうお仕事をしていたのかと何となく彼女をみてしまう自分がいる。それを色目というのかな。
でもそれがなぜ問題にならなければ行けないのか、と私は思う。
また、今が問題だっていう言い方も違うと思う。
いうまでもなく過去は問題ではない、というのも違うと思ってる。
裸を見せて胸を張ってお仕事なさっておられる方がいるのだ。
体を資本に胸を張ってお仕事なさっておられる方が現におられるのだ。
そういう方に対して失礼なような気がする、
といって自分の中にそういう仕事をなさっている方への偏見が全くないわけではない。結構あるっていった方が正確かも。

ここまで来たら彼女には過去のことを隠さず、恥ずかしがらず、堂々と頑張ってほしい。
私は応援します。

2009年9月12日

帰入功徳大宝海

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死園示応化

<試訳>

かくして大いなる海のように功徳が充ち満ちている念仏を頂けば自ずから阿弥陀仏が今なされている説法を聞くことができ、やがて浄土の世界ににいたり、ただちに佛の証りを得るものとなり、煩悩に満ちた迷いの世界もどり仏のはたらきを思いのままあらし、浄土へ導いていくのである

仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、
能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。(『浄土論』聖典137)

入第一門とは、阿弥陀仏を礼拝したてまつりて、かの国に生まれんとするをもってのゆえに、安楽世界に生まるることを得、これを入第一門と名づく。入第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆したてまつりて、名義に随順し、如来の名を称し、如来の光明智相に依って修行するをもってのゆえに、大会衆の数に入ることを得、これを入第二門と名づく。(『浄土論』聖典144)

入第三門とは、一心に専念し作願して、かの国に生まれて奢摩他寂静三昧の行を修するをもってのゆえに、蓮華蔵世界に入ることを得、これを入第三門と名づく。入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修するをもってのゆえに、かの処に到ることを得て種種の法味楽を受用す、これを入第四門と名づく。(『浄土論』聖典144)

出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園・煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく。(『浄土論』聖典144)

功徳大宝海...大いなる宝を海のように恵む恵み、弥陀の本願力よりおこる念仏
大会衆...阿弥陀仏が浄土で今現に説法なさっておられる会座にいる人。弥陀の説法を聞いている人
蓮華蔵世界...華厳経に出てくることばで、諸仏の浄土をさすことば。ここでは弥陀の浄土をさす。
真如法性の身...真如と法性は同義で人間の腹会を越えた本来の世界、涅槃のこと涅槃にかなった身、仏身のこと
...思いのまま、自由自在
煩悩の林...煩悩がはてしなく茂る林、私たちが今生きている世界
神通...神は不思議を意味し、通は力・働き、仏菩薩の計り知れないはたらき。
生死の園...生き死にの矛盾に悩む苦海、迷いの世界
応化...仏菩薩が衆生救済のために衆生にあわせた身となって現れること

今現在説法
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。(『歎異抄』聖典626)
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。(『阿弥陀経』聖典126)
たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。(『大経』聖典18)
我、仏道を成るに至りて、 名声十方に超えん。
究竟して聞ゆるところなくは、 誓う、正覚を成らじ。(『三誓偈』聖典25)

咨嗟...ほめ称える
弥陀の説法を聞いた大会衆(仏菩薩)は弥陀ほめ称えた。
その声を私たちは聞いている。 弥陀の説法は過去のことかも知れないけど、その教えを聞いたものが弥陀を讃嘆する声は今まだ私の前で響いている。
弥陀の説法→本願を信じよ。本願を信じなければならない身がおまえだ。
私たちはすでに弥陀の説法を聞いている。少なくとも弥陀の説法を聞いた諸仏書菩薩が弥陀を讃嘆する声ー念仏ーを聞いている。
弥陀の説法を弥陀の説法として受け止められていない私たち、
今現在弥陀が説法されている現実に気づいていない私たち
我が身が明らかにならないから弥陀の本願を頂けない私

2009年9月 5日

今日は何の日

今日お参りをしていたら御仏飯として赤飯がお供えしてあるお宅が何軒かあった。
今日は息子達が相撲大会といってた、
そうなんです、今日は地域にあるお宮さんの秋祭りなんです。
よく言うことですけど、在所(地域)の祭ではないと思っている。
そういう意味で近くのお宮さんがお祭りだからということで赤飯がお内仏にお供えしてあるのはあんまり良い思いをしない。
その中、今日、小さい頃からお世話になったおばちゃんが、お参りに行ったとき、赤飯炊いたと聞かれ何と応えたら、帰り赤飯を持たしてくれた。冷凍保存しようと思ってたヤツだそうな。
複雑な思いはあるけど、くださるという気持ちはとってもうれしい。
自分が住んでいるところがお寺だから、
自分は親鸞聖人の教えを大事にしている、
ということもあって、祭の日っていうのがあまり気にならない、気になってないフリをしている。
ただ、親戚の方が来られるのであれば迷惑かと思い、一生懸命午前中でお参りを済ませようと心がける。
でも、私岳ではなく、みんなお祭りって改めてするお宅が少なくなっているような気がする。
春祭りは獅子舞があるからまだされるお宅はあるけど、秋祭りの時めっちゃ祭だといって人を呼ばれるウチは少なくなってる。
その理由として私は
毎日ご馳走が食べれるようになったから
と思ってた
私が小さいときにはご馳走というのはお祭りの時、お正月お盆の時、ぐらいしか出てこなかった。
それが、今毎日のように食べようと思えば食べられるし、昔のご馳走を今毎日のように食べている。
そういうところでお祭りをする必要性が無くなってきたのだと思ってた。
でももう一つあるような気がする。
最近そう思う。
基本的にお祭りは豊作祈願祭であったり、疫病がこないことを祈願するものだと思う。
そういうところでいえば今農業を生業として生きておられる方が少なくなってきてる、というのも祭をされる方がいなくなったひとつの理由のように感じる。
豊作を神なる存在に祈ることをしなくなった、ということもあるのではないか。
自然に対する畏敬の念が薄れているから、農村部で。

そうだとすると、これでいいのだろうか、なんて思う私です。

ちなみに今日相撲大会で次男坊は五人抜きをしてきました。
初めて賞をもらってきました。
賞状、縦、などもらってくるのは委員だけど、
五幣ももらってきてる。
これどう扱おうかって悩みが出てる。
頑張った証なんだけどね、だけど...

うれしいことば

私が平生お参りに行くお宅は梨の生産農家が多い。ということでこの時期梨をよく頂く、
大概は食べくださいとくださる、それが当たり前になった。
それが一昨日ぐらい、
仏様にお供えしてください。
といってくださった。
ちょっと聞き慣れないことばなのでちょっととまどった。
だけど、いい響きだな。
そういやぁ~お供え喰いだっさいといって色んなものを以前頂いていたような気がする。
それがいつの間にか利かなくなった。
お供えするって大切なことだと今更思う。
自分が得をしますようにと大河そうするのだろうけど、
だけど、大切なものがはっきりしている、っていうことも言えることかも知れない。
お供えしなればならない対象がはっきりしているっていうことは大切なことなのかも知れない、
ちょっとそういうことを感じたわけです。

2009年9月 3日

私は計算が出来ない!

最近算数の計算が苦手な私です。
そういうところで悩んでいることがあります。
民主党がいっている子ども手当、これが月二万六千円、年間31万2000円になるはず、
でも、所得税の扶養控除を廃止するっていてるらしい。扶養控除は38万円
トータルしたら得するの?
私にはどう考えても損するようにしか思えない。
誰かそうでないっていうことを教えてください。

2009年9月 1日

今朝帰ってきて仕上げる

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朝帰りをして、っていう行源は誤解を招くのですが、
29日から城端別院で本堂布教をする役が当たっていたので合宿的生活をしていて、今朝ヨメハンに迎えに来てもらい帰ってきました。という意味で朝帰りです。
そして帰ってきてから、別院である程度仕上げていたごぼはんだよりを最終仕上げをして何とか発行という運びになりました。
よろしければ読んでください。

別院に泊まり込んでいるときオサムちゃんにお願いして夜連れ出していただきお酒をよわれました。
色んな話しを示唆し鰤にしてすっきりしました。自分が心配していることもオサムちゃんも心配しているっていうことが判って、一安心というはホッとしました。