彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生
信樂受持甚以難 難中之難無過斯
<試訳>
阿弥陀仏の本願よりおこる念仏は
よこしまな見方自分を驕るという悪に充ち満ちた私たちは
そのままの心では信じることがとても難しい
憍慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信じ難し。(大経巻上<東方偈> 聖典50)
憍慢と蔽と懈怠のものは、 もってこの法を信ずること難し。(無量寿如来会 聖典160行巻)
もしこの経を聞きて信楽受持すること、難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし。(大経下巻 聖典87)
富山に住むみゃぁらくもんのあおさんが、誰に気兼ねなく思うまま書き留めるブログ、にしたい, できるかなぁ?
2009年4月30日
2009年4月27日
2009年4月26日
彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生
信樂受持甚以難 難中之難無過斯
<試訳>
阿弥陀仏の本願よりおこる念仏は
よこしまな見方自分を驕るという悪に充ち満ちた私たちは
そのままの心では信じることがとても難しい
憍慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信じ難し。(大経巻上<東方偈> 聖典50)
憍慢と蔽と懈怠のものは、 もってこの法を信ずること難し。(無量寿如来会 聖典160行巻)
もしこの経を聞きて信楽受持すること、難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし。(大経下巻 聖典87)
「讀誦大乘」と言ふは、此れ經敎は之を喩ふるに鏡の如し、數々(しばし)讀み數々尋ぬれば、智慧を開發す。若し智慧の眼開けぬれば、即ち能く苦を厭ひて涅槃等を欣樂することを明す。(観経疏序分義)
今更に行者のために、一つの譬喩を説きて信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん。何者かこれや。譬えば、人ありて西に向かいて行かんと欲するに百千 の里ならん、忽然として中路に二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底な し、南北辺なし。正しく水火の中間に、一つの白道あり、闊さ四五寸許なるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交わり過ぎ て道を湿す。その火焰また来りて道を焼く。水火あい交わりて常にして休息なけん。この人すでに空曠の迥なる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊悪獣あり て、この人の単独なるを見て、競い来りてこの人を殺さんと欲す。死を怖れて直ちに走りて西に向かうに、忽然としてこの大河を見て、すなわち自ら念言すら く、「この河、南北辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きわめてこれ狭少なり。二つの岸、あい去ること近しといえども、何に由ってか行くべき。今日定ん で死せんこと疑わず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸漸に来り逼む。正しく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣毒虫競い来りて我に向かう。正しく西 に向かいて道を尋ねて去かんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕せんことを。」時に当たりて惶怖すること、また言うべからず。すなわち自ら思念す らく、「我今回らばまた死せん、住まらばま た死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。この念を作す 時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。また西の岸の上 に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。この人すでに此に遣わし彼に喚 うを聞きて、すなわち自ら正しく身心に当たりて、決定して道を尋ねて直ちに進みて、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊 等喚うて言わく、「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。我等すべて悪心あってあい向うことなし」と。この人、喚う声 を聞くといえどもまた回顧ず。一心に直ちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。善友あい見て慶楽すること已むことなか らんがごとし。これはこれ喩なり。次に喩を合せば、「東岸」というは、すなわちこの娑婆の火宅に喩うるなり。「西岸」というは、すなわち極楽宝国に喩うる なり。「群賊悪獣詐り親む」というは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩うるなり。「無人空迥の沢」というは、すなわち常に悪友に随いて、 真の善知識に値わざるに喩うるなり。「水火二河」というは、すなわち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩うるなり。「中間の白道四五寸」という は、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなり。いまし貪瞋強きによるがゆえに、すなわち水火のごとしと喩う。善心微な るがゆえに、白道のごとしと喩う。また「水波常に道を湿す」とは、すなわち愛心常に起こりてよく善心を染汚するに喩うるなり。また「火焰常に道を焼く」とは、すなわち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩うるなり。「人、道の上を行いて直ちに西に向かう」というは、すなわちもろ もろの行業を回して直ちに西方に向かうに喩うるなり。「東の岸に人の声勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて直ちに西に進む」というは、すなわち釈迦すでに滅し たまいて後の人、見たてまつらず、なお教法ありて尋ぬべきに喩う、すなわちこれを声のごとしと喩うるなり。「あるいは行くこと一分二分するに、群賊等喚び 回す」というは、すなわち別解・別行・悪見の人等、妄に説くに見解をもって、迭いにあい惑乱し、および自ら罪を造りて退失すと喩うるなり。「西の岸の上に 人ありて喚う」というは、すなわち弥陀の願意に喩うるなり。「須臾に西の岸に到りて善友あい見て喜ぶ」というは、すなわち衆生久しく生死に沈みて、曠劫よ り輪回し迷倒して、自ら纏うて解脱に由なし、仰いで釈迦発遣して指えて西方に向かえたまうことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまうに籍って、今二尊の意に 信順して、水火二河を顧みず、念念に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命已後かの国に生まるることを得て、仏とあい見て慶喜すること何ぞ極まらん と喩うるなり。また一切の行者、行住座臥に、三業の所修、昼夜時節を問うことなく、常にこの解を作し常にこの想を作すがゆえに、「回向発願心」と名づく。 また「回向」というは、かの国に生じ已りて、還りて大悲を起こして、生死に回入して、衆生を教化する、また回向と名づくるなり。三心すでに具すれば行とし て成ぜざるなし、願行すでに成じてもし生まれずは、この処あることなしとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと。知るべし、と。(観経疏散善義)
「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に 没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じ て、定んで往生を得」と信ず。また決定して深く、「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむ」 と信ず。また決定して、「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と深信するなり。また深信する者、仰ぎ願わく は、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依って、仏の捨てたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏の 去てしめたまう処をばすなわち去つ。これを「仏教に随順し、仏意に随順す」と名づく。これを「仏願に随順す」と名づく。これを「真の仏弟子」と名づく。(観経疏散善義)
2009年4月23日
2009年4月22日
2009年4月21日

2009年4月20日
2009年4月18日
2009年4月16日
2009年4月15日
2009年4月14日
2009年4月13日
2009年4月12日






2009年4月11日
2009年4月10日

東本願寺の春の法要の時お参りに行って子ども達のおみやげに買っていきました。すごろくで親鸞さまに触れて東本願寺出版部が商品化(京都新聞)
真宗大谷派の東本願寺出版部(京都市下京区、東本願寺内)は、子どもたちが宗祖親鸞の人生を遊びながら学ぶ「親鸞さますごろく」を作った。誕生がふりだし、入滅があがり。サイコロを振って進むうちに、得度や法然との出会い、流罪...と親鸞の生涯や思いをたどっていける。
宗派の「同朋新聞」の昨年7月号に、子ども向けにこのすごろくを掲載したところ好評で、商品化の要望が相次いだという。
2009年4月 9日
2009年4月 3日


2009年4月 2日




2009年4月 1日