昨日の茶飲み話 - ごぼはんのひとりごと

2007年12月25日

昨日の茶飲み話

昨日の午前中、門徒さんが訪ねてこられた。
毎年一年に一度しかお会いできない方です。
お茶を飲みながらいろいろ花試をを聞いた。
この高田糖尿病の患者さんであり、十年ぐらい前に脳溢血で入院された方です。
だから私に糖尿病はどうかとよく心配してくださいます。
脳溢血で倒れられたのですが、私から見る分後遺症はない方です。
今は本当に健康に気をつけておられるそうです。ある意味この健康に気を遣いすぎて会社が駄目になッたっともおっしゃっておられました。
ある意味健康オタクになるきっかけは入院だったそうです。
今は酒をほとんど飲まず生活を去れ、
たばこは以前一日に数は好んでおられたそうですが、今は全くおやめになったそうです。
そして健康のためまいにちに時間歩いておられるそうです。
これを聞いただけで勝てないなぁ~ってかんじです。
入院し、このままでは間違いなく死ぬとお医者さんに言われ、
心改めて今に至っているそうです。
毎日沢山歩き、好きなたばこもやめることが出来たのはやっぱり自分の死が見えてきたからだそうです。
糖尿病を患っておられながらもどことなく入院するまでは自分の死は人ごとだったそうです。
病気になるという現実をとおしてこのままでは死んでしまうと強く思われたそうです。
そういう話を聞くと私はどこまでいってもまだ人ごと状態、ということを知らされます。
凄いなぁと頭を下げるしかありません。ついでに俺にはまだそうはなれん!そういう思いもほぼ同時に湧いてきます。

このままでは死にきれない、そういう重いから健康に凄く気をつけられるようになられた。
では念佛は?
後生の一大事と蓮如上人はおっしゃられるのだからある意味我が身の問題として死と向き合えたとき念佛を一心に申せるのだろう。
ある意味々ことをきっかけとしてある人は健康オタクに、ある人は念佛を心から申すことが出来るようになる。
健康と念佛を々ところで考えるべきではないだろうけど、
でも私は、死というものが我が身の問題として受け止められていないから、糖尿病である私が健康に気を遣わず、念佛も心なく称えてしまっている。これは間違いない。

何故念佛を称えるのだろう

わからなくなってきちゃった

やっぱあやふやなところでお念仏とつきあっているみたい、これは間違えない。

手がかりとなる言葉
「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転し て、出離の縁あることなし」と信ず。二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。また決定して深く、「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむ」 と信ず。また決定して、「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と深信するなり。また深信する者、仰ぎ願わく は、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依って、仏の捨てたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏の 去てしめたまう処をばすなわち去つ。これを「仏教に随順し、仏意に随順す」と名づく。これを「仏願に随順す」と名づく。これを「真の仏弟子」と名づく。ま た一切の行者、ただよくこの経に依って行を深信する者は、必ず衆生を誤らざるものなり。何をもってのゆえに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なる がゆえに、仏を除きて已還は、智行未だ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありて、未だ除からざるに由って、果願未だ円ならず。これらの凡聖は、たとい 諸仏の教意を測量すれども、未だよく決了することあたわず。平章ありといえども、かならず須らく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称えば、すなわち 印可して「如是如是」と言う。もし仏意に可わざれば、すなわち「汝等が所説この義不如是」と言う。印せざるは、すなわち無記・無利・無益の語に同じ。仏の 印可したまうをば、すなわち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多・もしは少、すべて 菩薩・人・天等を問わず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなわちこれ「了教」なり、菩薩等の説は、ことごとく「不了教」と名づくるなり、知るべし と。このゆえに、今の時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし、菩薩等の不相応の教を信用してもって疑碍を為し、惑を抱いて自ら迷いて、往生の大益を廃失すべからざれとなり。乃至 釈迦、一切の凡夫を指勧して、この一身を尽くして専念専修して、捨命已 後定んでかの国に生まるれば、すなわち十方諸仏、ことごとくみな同じく讃め同じく勧め同じく証したまう。何をもってのゆえに、同体の大悲なるがゆえに。一 仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり、一切仏の化はすなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説かく、「釈迦、極楽の種種の荘厳を讃嘆した まう。」また「一切の凡夫を勧めて、一日・七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、定んで往生を得しめたまう」と。次下の文に云わく、「十方におのおの恒 河沙等の諸仏ましまして、同じく、釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪無信の盛なる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励せし めて、称念すれば必ず往生を得、と讃じたまう」、すなわちその証なり。また十方仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんを恐畏れて、すなわち共に同心・同 時に、おのおの舌相を出だして遍く三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、汝等衆生、みなこの釈迦の所説・所賛・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の 多少・時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。こ のゆえに、一仏の所説をば、すなわち一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。乃至 またこの正の中につい て、また二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に 順ずるがゆえに。もし礼誦等に依らば、すなわち名づけて「助業」とす。この正助二行を除きて已下の自余のもろもろの善は、ことごとく「雑行 行」と名づく、と。乃至 すべて「疎雑の行」と名づくるなり。かるがゆえに「深心」と名づく。

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