聴聞(ちょうもん)
15?16日組内寺院で報恩講のお話をさせていただくことになっている。
相変わらず話の内容は決まってないんです。でも今朝少し練っていました。
そこでどういう流れになって火わからないんだけど、
聴と聞について考えていた。
nikojuさんが調べたところによると
こういうもじだけをみるとしゅたいてきな聴」という字の方がかっこいいような感じもする。こっちでなけりゃぁなんて思ってしまう。
でも、主体的な聴くであると、聴こう聴こうとする、そうすると、そこに自然にフィルターが生じるような気がする。自分が聴きたい話かどうかっていうところで選り好みが私のところでは起こってしまいそう。
それは聞く人にたいする信、「帰命」の心のなさからくるものだろう。自分の四手で聴いてしまって結局大事であるはずのことを流してしまいそうだ。
聞くもすべてを聞き流すっていうことになりそうだけど、その中で何故かはっとする言葉にであうことがあるのではないだろうか。「耳の底にとどまるところ」っていう表現も、聴き覚えた、っていう感じより、何遍も言うから覚えてしまったよっていうかんじじゃないかと私は思ってる。でも、聞くは聞き流してしまうこともたくさんあるのは間違いない。
聴きたいと思った時想定に入らない話は除けられていってしまう。しかし主体的に聴けば言葉の奥にあるものも聞き取れていく。
けっきょく よくわかんない。
今自分が大事にしたいことは、言葉の奥にあるものを大事にしていきたい。何でこういうことを言うのだろう。そう発言する背景にであっていきたい。
相変わらず話の内容は決まってないんです。でも今朝少し練っていました。
そこでどういう流れになって火わからないんだけど、
聴と聞について考えていた。
nikojuさんが調べたところによると
ともに耳で聞くという意味があるが、「聞」は耳に聞こえてくるという非主体的な結果をいい、「聴」はきこうとする主体的な意思による。という違いがあるそうだ。
こういうもじだけをみるとしゅたいてきな聴」という字の方がかっこいいような感じもする。こっちでなけりゃぁなんて思ってしまう。
でも、主体的な聴くであると、聴こう聴こうとする、そうすると、そこに自然にフィルターが生じるような気がする。自分が聴きたい話かどうかっていうところで選り好みが私のところでは起こってしまいそう。
それは聞く人にたいする信、「帰命」の心のなさからくるものだろう。自分の四手で聴いてしまって結局大事であるはずのことを流してしまいそうだ。
聞くもすべてを聞き流すっていうことになりそうだけど、その中で何故かはっとする言葉にであうことがあるのではないだろうか。「耳の底にとどまるところ」っていう表現も、聴き覚えた、っていう感じより、何遍も言うから覚えてしまったよっていうかんじじゃないかと私は思ってる。でも、聞くは聞き流してしまうこともたくさんあるのは間違いない。
聴きたいと思った時想定に入らない話は除けられていってしまう。しかし主体的に聴けば言葉の奥にあるものも聞き取れていく。
けっきょく よくわかんない。
今自分が大事にしたいことは、言葉の奥にあるものを大事にしていきたい。何でこういうことを言うのだろう。そう発言する背景にであっていきたい。

コメント[3]
おっしゃるように漢字の使い分けがあるのであって どちらがよいということじゃないですね お聖教では「聞」の方が多くて 「聞こえてくる」というニュアンスもあります
関係ないですが わたしのIEでは このブログ おそらく左カラムされている位置が 右にずれているんですが・・・
Posted by 流星 at 2007年11月12日 15:06 | 返信
ご忠告ありがとうございます。 時計のあるカラムエライずれていますね。びっくり、 もじらを使っているので気づきませんでした。 原因だけでも探してみます。まず。
Posted by あおさん
at 2007年11月12日 15:33 | 返信
>流星さん 早速、書き直したり、どうしようもないものは排除しました。 これでまずまずかなって思います。 ご指摘ありがとうございました。
Posted by あおさん
at 2007年11月12日 21:16 | 返信
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