2007年8月 5日

肩が痛いことからの想像

ここ二ヶ月になるのだろうか。

肩が上がらなくなり、

医者の診察によると、○○肩っていうやつと、そして手がしびれているのは首のヘルニアだとか。

○○肩の宝は肩の関節になめらかにするための注射を週に一本、そしてヘルニアの方は積極的な治療ではなく症状をだますための注射。コレは二日に一回だとか。そういう治療にも消極的になりあまり通っていない、気が向いたときだけ。

肩が上がらずしびれるのは結構へこんでいる。視力が落ちたときから比べてもへこんでいるような気がする。もしかしたらそのへこみを今は忘れているだけなのかもしれないけど…

インターネットでも治療法を探してはいるがまだ実行はしていない。

 

今までできたことができなくなっている、簡単にできたことが今は結構苦労してやっている。

そのなかで何かが削がれていくような思いもする。夢を抱いてもあきらめざるを得ない感じ。

ちょっと大げさに表現したけど、そんな感じのちっちゃいやつが私の心の中にある。

そういう意を抱いているとなぜ果位のkanお人人っていう言葉を思い出す、そして考えた。

 

宗祖親鸞聖人がおっしゃるゐなかの人々と呼ばれている人々の生活は、

生きる希望みたいものを削ぎ取られている人々ではないかと。

自然、災害から削ぎ取られる、そして削ぎ取られることにびくびくしている。

そういう人々が宗祖の教えに、生き方に出遇い驚いたのではないだろうか。何故か元気が出たんではないだろうか。

都の人々からひととして扱われず、そして自然におびえながら生きている人々

その人々が宗祖と出遇い、生き方の転換が生じたんではないだろうか。かわりめっていうやつ。

なんかそんな気がするな。

自分には教えが教えとして出遇えていない。だからなかなか変わり目が生じない。

そんなことも感じるな。 

 

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コメント[1]

この頃つくづく思うんですが、この世はどこまで行っても「貧」「病」「争」の三つ。これが有る限り、われわれ坊さんは休んではいけないんです。多分。

もうすぐ「ゐなかのひと」になりますが、多分思ってるほとゆっくりはできないんじゃないか・・・と。

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