2007年4月25日

ご本尊

その時、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして光顔魏魏とまします。尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなわち座より起ち、偏えに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して仏に白して言さく、「今日、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とまします。明らかなる浄鏡の裏表に影暢するがごとし。威容顕曜にして超絶したまえること無量なり。未だ曾て瞻覩せず。殊妙なること今のごとくましますをば。唯然り。大聖、我が心に念言すらく、今日、世尊、奇特の法に住したまえり。今日、世雄、仏の所住に住したまえり。今日、世眼、導師の行に住したまえり。今日、世英、最勝の道に住したまえり。今日、天尊、如来の徳を行じたまえり。去・来・現の仏、仏と仏と相念じたまえり。今の仏も諸仏を念じたまうことなきことを得んや。何がゆえぞ威神光光たること乃し爾る」と。
ここに世尊、阿難に告げて曰わく、「云何ぞ阿難、諸天の汝を教えて仏に来し問わしむるや。自ら慧見をもって威顔を問いたてまつるや。」阿難、仏に白さく、「諸天の来りて我に教うる者、あることなし。自ら所見をもってこの義を問いたてまつるのみ」と。(仏説無量寿経巻上)
その時に世尊、韋提希に告げたまわく、「汝いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。汝当に繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまえる者を観ずべし(仏説観無量寿経)
その時に、仏、長老舎利弗に告げたまわく、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。(仏説阿弥陀経)

今日月参りにいってご本尊を眺めていたら、

絵像や木像の人の姿をしたものは本山の中に入らないんではないだろうかなんて思った。後光だけあらわしとけばいいじゃん。なんておもっった。

仏を如来ともいうが、仏は音から訳したもの、如来は意味から訳したものと考えてもいい。だから仏は真より生したるわたしへのはたらきという意味と理解してよい。わたしを明らかにしてくださる真実より放たれている光、それが如来であり仏である。

だから形としてあらわされるご本尊は真如より放たれている光だけを表現してもよいと思った。

  でも、光となって私を明らかにしてくだされるはたらきは人をとおして私に働きかけてくれるのかもしれない。

でも、

ヒカリなる如来を感じるには、ある意味如来はどこだ!と探しても多分見つけることはできないだろう。

 如来を感じるには、隣に座っている人の姿をじっと観察することによって、その日との後ろにあるものをみるかのようにじっと見ることによってもしかすると感じることができるんではないだろうか。しかし、このヒカリ、仏でないと後光を見ることはできないそうだ。仏の徳だそうだ。阿羅漢だったかな、もしかして?でも、阿難尊者は阿羅漢になっていないのにお釈迦さまの姿を見た時、光顔巍巍たる後光を見ておられるんだよね。

念仏の道を現に歩まれている人の姿を凝視することによって、観察することによっていつかその人の姿の後ろに 光顔巍巍たる如来なるはたらきを見ることができるかも知れない。これが一番の近道かな?

念仏者の姿に後光を感じることができたなら、いろんな人の姿にも少しずつ、うっすらと如来なるヒカリを感じることができていくと思う。 

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コメント[1]

 何もわからないまま書いています・・・。 キリストの絵を見ると、キリストの頭の後ろには必ず、丸い光のようなものが書いてありますね。無精ひげのキリストの顔の後ろに光のようなものが・・・。     >後光だけでいい   神道の三種の神器の鏡みたいになってし  まいそう・・・。思いつき、すんません。

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