2007年4月23日

末法を生きる

最近末法ということを考えたり、語ったりすることがよくある。

それは宗祖親鸞聖人が流罪を受けて800年ということから学びがはじまり、末法という時代を考えるようになった。

末法という時代は、釈尊のような証を開く人もいなければ、教えに基づいて行じることもままならない時代である。

 

釈迦如来かくれましまして
二千余年になりたまう
正像の二時はおわりにき
如来の遺弟悲泣せよ

 

と宗祖が唄われているように仏果を得られないというのは仏教徒ととして悲しむべき時代である。

でも、

証もない、行もない時代なんだけど、

でも

経があるんだ!

釈尊の教えがこの世にはあるんだ。

約二千五百年前釈尊が語られた言葉が文字に表されそして教えとして今私たちのところに伝えられている。

二千五百年前の言葉が今を生きるもののより所としてわたしのところにやってきているのだ。

二千五百年という時、

インドから日本へという距離

いろんな民族のバトンリレーを経て

わたしのところにやってきている。

 

証も行もない時代だけど、

時を経ていろんな人の宝となって日本に住む私のところに経が伝わってきている。

これってすごいことじゃない?もしかして!

今日にあえたことって喜ぶべきじゃない?

時を経て民族を経て自分に伝わってきた事実はホンモノの、真実の証と違うん? 

別に仏になって人を救済する必要ないじゃん!お釈迦さん一人でいいやん!

人を救うためにい修行する必要ないじゃん! 

 ただ末法の時代のために説かれた浄土の教えにあえたことを喜んでいこうや!

 浄土の教えを聞いていこうやん!

南無阿弥陀仏となった仏の教えに基づいて南無阿弥陀仏の生き方をしていこうよ!

みんなを救おうとする阿弥陀の勧めをいただいて、末法を生きるものとしてわたしの足でわたしの決意で浄土への道を歩んでいきませんか?

証も行もなくなった時代だけど、

今はまだ経が残っています。その経を道しるべとして生きていきましょう!

経がなくなったとしても仏の願いはなくならないことでしょう 永遠に残るでしょう。かも知れません。

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