ごぼはんのひとりごと

2010年2月 7日

遅ればせながら 節分を考える

もう過去のことと言ってもいい時期になりましたけど、ちょっと節分について...
節分衛について以前から気にはなっていたんですけど、《鬼は外》という言葉が中心に疑問を感じていました。
鬼はうちという言葉に代えればだいぶ問題は解消されるのかという感じで受け止めていたんです。
だけど...
テレビのニュースを見ていて考え直したんです。
節分の風景を知らせるニュースで
保育園児が鬼の格好をして鬼は外といって豆まきをしてました。
そのときは滑稽だとだけ感じてたのです。鬼が鬼払いしていると。
でもあの相が私たちだともあとから気づかさせてもらいました。
あの滑稽と感じる相が多分自分のことなのだろうと。
そう知っていくこと、頷くことが私たちにとって大切なこと。
燃してもう一つ、
鬼はうち、といって鬼と仲良くなっていくのも違うと考え出したんですよ。
嫌い鬼のまま、こわい鬼のまま鬼と出会うことこそ大切なんでしょうね。

こわい存在と、受け入れがたい存在都道で会うか、これが私たちにとって大事なことだと思うんです。
鬼が福を持ってくる存在にしても鬼が鬼でなくなってしまうんでないかな。
福も、悪もそれは私たちの計らいでしかない、自分の経験だけを元にしての感覚でしかないんです。

2010年1月31日

何とか仕上がりました ごぼはんだより


いつもの事ながらぎりぎりになってやっとごぼはんだよりが出来上がりました。
よろしければご覧になってください。
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明日、朔日から城端別院で本堂布教をするという役割を頂いているのですけど、どうもキャンセルしなければいけないかな?
お寺とご縁のある方が亡くなられたという案内を今頂きました。日程についてはまだ相談してませんけど、でも、どう考えても、本堂布教をする期間中に葬儀をしなければならない事でしょう。

2010年1月25日

いのちは重い

一昨日教務所で研修会があり、言ってきました。いやいや、行ってきたんです。

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担当小委員会の幹事をしているって言うことでチョッと早く会場に向わないとと思い早めに家を出て、高岡駅に着き、乗換えようと思ったら、俺を呼ぶ声が、どうも駐在、声がする方に向くとヤッパリ公用車に乗った駐在が、そろそろ講師がつくから迎えてくれと、訳がわからず待つと、駐在がやってきて、駐車場がいっぱで車から離れれないので矯む、っていうことだった。やっと現状を理解して町、しばらくするとおいでになられました。一度しかお顔を拝見したこと無かった方でしたが、何とか発見。ご飯を食べておられないと言うことでいっしょにご飯にすることに、
そして研修会、懇親会。梶原さんはお酒をお飲みになられないとのことだったが、懇親会におつきあいくださり、懇談。
そして帰宅して、またの見直して、飲みつぶれて2日酔いの朝でした。2日酔いの中、プロの野球とれなーの講習会があるというので、立場上参加して、ビデオ撮影、「バランス」の大切さをいわれてた。終わり、昼ご飯も食べる暇なく法事に、途中睡魔に襲われ負けそうになるが、根性で持ちこたえる。夕方、今日の組の教化委員会の内あわせを組長宅でして、帰宅して、寐たって言うわけです。
めっちゃあわただしかったです。
特に、梶原さんの話を振り返ることなく、ばたばた、それが何か、もったいない気がしてならない。
そうそう、懇親会で、藤元先生の話をリアルで一度も聴いたこと無いと話したら、それは勿体ないことでって言われたことを思い出す。
梶原先生の話の中で一番記憶になっているのは、
現代は生死が重くなってしまってる、っていわれたこと。
いのちは重たいもの、だからこそ、生死を軽くしなければいけない。
生死が重たくなっていのちが隠るなってしまっている。
なんて言うことを仰っておられたことを思い出す。
これだけ放るほどって思った。
これだけはっていう言い方は語弊があるかも知れないけど。
イヤ、
久しぶりに、
人の話を聞いて、わからない言葉がいっぱいあった。聞き慣れない言葉、語意がつかめない言葉、何を言おうとされているのか理解できない言葉。
久しぶりにわからん、なんて叫びたくなる研修会だった。
これは梶原先生の問題ではなく、俺の問題だ。
もうちょっとしっかり教学というか、教えに出会っていかないとと反省させられました。
そういう意味でもヤッパリしっかりノートを読み返さないといけないんだけど、
なかなか振り返る時間が作れない自分です。
そういうわけでやれやれでした。
いのちは重いのだから、生死は軽くしないといけない、
この言葉にチョッと、が~~んとさせられました。
自分が生きているって言うことをチョッと、イヤだいぶ自分の所有化しているって言うか、そうなんだろうな~って。
いのちは重く、生死は軽く、
心に響いてます。

2010年1月23日

寒い寒い

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昨日も子ども達の少年野球に顔を出してきました。
昨日は練習をしている小学校グランドに雪が無くなったと言うことで、
今年初めて外、すなわちグランドで行ないました。
寒いサムイでした。
いつもより早く練習が終わったのですが、寒さはなかなか無くなりませんでした。
子ども達は元気です。
まぁ、すっと体を動かしているわけですから、体から熱を発しているでしょうから、体をほとんど動かさずにみているだけの私と比べるとそんな寒さを感じてはなかったでしょうけど...

その後少年野球の父母会のOB会があって、呼ばれていって来たんですけど、底でも、ビールしかよわれなかったので、なかなか、体が温まらなかったとさ。アルコールの力ではなかなか冷え切った体は温まりませんでした。

2010年1月22日

無性に

昨日無性にFLASH動画を造りたくなって、色々ネットの中に入り込み考えていました。
その中でお金をかけずできるベストとして、
パワーポイントで造り、それをファラッシュに変換する、っていうのを選び取った。
FLASHに替えるソフトとして、無料ソフトの
っていう奴を使ってみました。

FLASH動画って言っても文字をチョッと動かしたかっただけだったんですけど、
元もとパワーポイント自体、ソフトは持ってるけど使ったこと全くなかった、縁遠かったヤツですから、それを使うこと自体、ドキドキものでした。使い慣れずあれこれしました。
そんな中で仕上げてみました。
ご覧あれ!

一度しか使わないであろう工具

年末からマイチャリのチェーンがよくはずれるので、
この間ホームセンターでチェーンを購入して付け替えた。
付け替えた日は、一度乗ったら、つなぎ目が切れチョッと落ち込み、また付け替えた。
その後は切れることなく、マイチャリご機嫌で乗ってます。
何と言ってもチェーンにオイルが沢山のっているので静かです。嬉しくなっちゃいます。
ところで、
このてぇーんを替えるのに、チェーンを外したりつけたりするための工具もいっしょに克ったんです。高かったら止めようと思ったんですけど、弐仟圓もしなかったので克った。
っていうか、
工具をあわせてそんなに高い値段でなかったので、自分でチェーンを取り替える決意をしたのだけど...
高かったら新しい自転車を買うつもりでした。
この真ん中の選択枠がほしいのですけど、
歩いていける範囲に自転車屋さんがないんです。歩いて30分ぐらい離れたところに二軒張るんですけど、そんなことしできない。
だから自転車屋さんで直してもらうって言う選択枠は私にはないのです。ひいきの自転車屋さんがあれば直しに来てっていえるのだろうけど...

そういうチョッと横道だけど、
この間長男坊の視点者を予約しました。
今年中学校に入学する長男。色んなものを帰って言うDM沢山来るし、色んなものこれから買わないといけないみたいです。
彼は中学校までチャリンコ通学、っていうことで自転車は必需品です。
中学校付近にある自転車屋さんに剣がセールスに来たそうですけど、
その中の一軒で予約しました。
途中壊れたりパンクしたこと考えると、直してもらうことを考えないと、だからホームセンターでの購入は除外、うわさでは、ウチで買わないと直してやらんぞ~っていう店があるらしいから。
平生お参りをしているオタクの親戚が中学校近くの自転車屋さんが親戚らしい、そして男の子も少年野球やっている。なんて言うことで、縁故購入、義理買いです。
よく話しを聞くと、高校の先輩で、写真部のOBでした。
しかたないなって感じです。

さてさて、
自分オジ転写のチェーンを替えるために買った工具、
これどう考えても、二度と使わない。
そう考えると勿体ない。
ホームセンターで勝った自転車を自転車屋さんでなおしてくれって言う勇気も俺にはない。
また値段を考えると、自分出直した方が多分安い。多分工具台入れても。
お金が勿体ない。
工具を一回しか使わないものを買うのが勿体ない。
これどっちの勿体ないを選べばよかったんだろう。
終わった後で悩んでいます。
あなたならどっちを撰ぶ?

2010年1月17日

あぁ~あ

12月のはじ女子六立ったかな、子ども達の野球の関係で飲み会をしていて、マイチャリで雨の中帰ろうとしたとき、剣道のくぼみに気づかずその二突っ込み、しっかりパンクさせていた。なかなか直すことができず、とりあえず、予備というか、ヨメハンのママチャリを使っていた。
そのままチャリも、12月下旬ゴロからよくチェーンが外れるようになった、そしてここ一週間園はずれる割合という回数が増えてた。一日5~6度は外れてた。めちゃくちゃいらだってた、そのことで。
最近の積雪によりチャリンコを使わずに歩いてお参りに出てたんだけど、今日久しぶりにチャリででることにした。
そうしたら、チェーンが外れたままになってたことに腹が立って、自分が外したままにしてたのだけど...
しかたなく直して自転車を漕ぐとまたすぐに外れた。
チェーンが外れる原因はてぇーんのたるみにあると思ってたんだけど、今日しっかりてぇーんをみてみると、言うまでもなくチェーンもしっかりたるんでるんだけど、もう一つ、チェーンが切れてた。それも何カ所かで、
片側だけ何カ所か切れてた。
多分、何度もチェーンが外れ、そしてなおしたり、その間に負荷がかかってたのかな?
その事実を知ったときショックでした。
昔の言い方で言えば、ガビ~ンって感じ。
しかたなく歩いてまたお参りに出たっていうわけです。

今の問題は、チェーンを替えるべきか、新しい自転車をホームセンターで安く買うべきか。
悩んでます。値段と相談ですね。

2010年1月14日

思いをかなえてくれる神仏 こそ...

私たち日本に住むイメージから言うと、神仏というのは、
願いを叶えてくれる存在、
願いを叶えてくれるから礼拝の対象となることが多い。
それはそうなんだけど、
ほんとうに今を生きる私たちにとって必要な存在なのだろうか。
私たちにとって大事な存在なんだろうか。

ふとおもったことは
神仏が自分の願いばかり聞いてくれると、私たちはどうなっていくだろうか。
そう考えると、
自分勝手な人間になっていくのではないだろうか。
人間の思いを中得てくれる神仏は自己中の人間を生産していく。
そうなんではないでしょうか。
それでいいんでしょうか。
今私たちに必要なゾンザイハ、自己中心的には生きていってはいけない、
自分勝手な生き方をしてはいけないというはたらきなのではないだろうか。
「自分の思いは叶わぬもの」
「和(やわらか)」をみだしているのはおまえなのではないか
そういうことを言い当ててくれるはたらきこそ、今を生きる私たちは大切にしていかなければいけないのではないかと思うんです。

神仏に願を掛けてはならないなんて言うことは思わないけど、
そういうことを願うことはとういう事なのかなんて考えることが自分たちには大切だと思う。
そして、人生思い通りには行かないもの」と言うことを尊くも言い当てていただける存在、頷かせてくだされるはたらきとして、神仏に礼拝していくことが大切だと思う。
そういう存在こそ、我等が本尊、阿弥陀仏なのだろうと思う。

私が必要としている佛と、
私が必要にしなければならない佛がいる、

2010年1月13日

平仮名の楷書

ふとおもったこと
お正月子ども達の書き初めを見ていて思ったことなんですけど、
前置きなんですけど、私はめっちゃ字が奇麗です。まわりの人から之にほんんの文字?ッて聞かれるぐらいすごい字を書きます。近年書き物はパソコン系でということになってペン、ましてや筆を持たなくなり、文字の芸術化はどんどん進んでいる私です。
そういう私だけど持ったこと、それは、
初心者が平仮名を楷書体で書くということは無理
そう私は結論づけたわけです。
かなというのは感じを略字化したというか、デザイン化して出来上がったもの、基本的にカタカナは楷書体をくずしていったもの、そして平仮名は行書(?)、もしくは草書体(?)をくずしていったもの。
そういうことがあって、平仮名はまるっぽい。カタカナはカクカクしている。
ウチのバカ息子達はめっちゃ不器用。
そういう息子達は最初から鉛筆矢津で出丸を書けといってもまともにかけない。だから平仮名はかっこわるくなる。いわゆる汚い字になってしまうのだと思う。
真っ直ぐの線がかけないものがどうしてまあ類○をかけようか。
帝国日本が終わり文字もカタカナでなくひらがなを使うことが決まったようだ。
だから最初に平仮名を習うと言うことは仕方がないこと、と思うんだけど。
今までカタカナを公文書としてきたという歴史があった。そうなったわけもあるはずだ。
それはヤッパリ楷書体からかたかなになっていたからでないのかな?
平仮名は行もしくは草書という崩し字からなっているから公文書でなかったんじゃないかな。
楷書体は基本だけど書くのは難しい。難しいと言っても奇麗に書くのは難しいわけ。
でも基本を知らないと字はくずしていけない。奇麗な崩し字になってゆかない。
基本ができていないのに応用は無理というのと々事だと思う。
それなのに現代日本では、小学校で一番最初に平仮名を習う。
応用から習うのと々事。だからなかなか器用でなければ奇麗な字、まとまった字になっていかないんじゃないかな。
何が言いたいかというと、うちの子立ちが字が汚いのは子ども達が不器用だから、そしてそれ以上に最初仁平香奈を習うからだ!と大きな声で主張したいのです。
崩し字を変形してできた平仮名を楷書体で書くという理論的にはおかしな事を最初に教えてしまっている教育制度。それはやっぱ無茶があると思う。奇麗な字を書くための教育制度には間違いなくなってないと私は思うわけです。
書家でもなく、字がいまだに奇麗にかけない私ですけど、最近そういうような気がしてなりません。

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